1949年公開。
“光と影の魔術師”と呼ばれた画家・レンブラントの特徴とされる採光の手法「レンブラントライト」をフルに活用し、モノクロならではの映像芸術でサスペンスを盛り上げる傑作です。

印象に残るシーンが多いことでも有名な作品ですね。
暗闇で見えなかった謎の人物の顔にいきなり照明が当てられ、その表情の巧さに息を呑みます。
実際の観光名所であるウイーンの大観覧車を、見上げるように撮影して壮大さを演出し、
クライマックスの下水道での追跡劇もまた、光の当て方による影の演出がクールです。

そして残酷で美しいラストシーンは、屈指の名シーンとして映画史に残っています。
後半にいくにつれて、どんどん惹き込んでいくストーリーと一緒に、こうした映像美もまた見ごたえがあり、とても楽しめる映画です。

あらすじ

第二次大戦直後、ウイーンは米英仏ソの4カ国による共同占領下に置かれていた。
まだあちらこちらにナチス・ドイツから受けた攻撃の爪痕が残っていて完全な復興とは言い切れず、闇商売が横行している。
そんなウイーンに住んでいる友人、ハリー・ライムから「仕事を頼みたい」という申し出を受けた作家のホリー・マーチンスは、アメリカからはるばるやってきた。

作家といっても、あまり売れていない三文小説ぐらいしか書いていないホリーは破産しており、現在も仕事がろくにない状態だったので、ハリーからの依頼はありがたかった。
しかし駅に到着しても、待っているはずのハリーがいない。

住所を聞いていたので、ホリーはハリーのアパートに直接行ってみることにした。
部屋の前まで来たところで、管理人からハリーが事故で死んだことを教えられる。
ほんの数分前に彼を納めた棺は出て行ったばかりだった。

ホリーはその足で葬儀が行われている墓地に向かう。
参列している人たちの中心には、ひときわ目を惹く美女がおり、ホリーは彼女が何者なのか気になった。

葬儀が済んだところで、帰国するお金もなく、とりあえず町まで行こうと歩き出すと、一人の男性から声をかけられて一緒に飲みに行くことにする。
彼はキャロウェイと名乗り、イギリス軍部の大佐だった。

キャロウェイに訊かれるまま、ホリーはハリーとは学生時代からの友人だが、社会人になってからは交流があまりなかったことを話す。
現在のハリーをよく知らないホリーを挑発するようにキャロウェイは、ハリーは悪人で死んで当然だ、と悪し様に表現した。

翌日の航空券を手配してくれると言い、軍のホテルに宿泊させてもらうことになるが、ホリーはキャロウェイを許せなかった。
キャロウェイの部下はホリーのファンで、彼をホテルまで案内することを光栄に思っている。

ロビーでGHQの人間に会い、キャロウェイの部下が、ホリーは有名な作家だ、と紹介すると講演を依頼してきた。
講演料も支払うし、宿泊費も面倒見る、という申し出にホリーは乗る。

とんとん拍子に上手くいったところで、フロントにホリーへの電話がつながった。
相手はハリーの葬儀で中心にいたクルツ男爵という人物だった。
ハリーが死んだとき、傍にいたのだという。

ホリーはクルツ男爵の話を皮切りに、いろんな人たちから話を聞いてハリーの死の真相に近づいていく。
そのために新たな殺人が起こり、ホリー自身も狙われるのだった。

悪徳の栄え 美徳の不幸

ハリーの事故現場にはクルツと友人ポペスク、さらにもう一人の男が、事故にあったハリーを道のわきに移動させていた、という目撃証言がアパートの管理人からホリーに伝えられました。

現場にいた、この第三の男は誰なのか。
ホリーが追うべき真相は、この男の正体を掴むことにあります。

で、あっさりネタバレしますが、この第三の男は死んだはずのハリー・ライム自身なんですね。
事故に遭って(と見せかけられて)運ばれたのも、棺に入れられていたのも別人でした。
身代わり殺人です。

ホリーはクルツを介してハリーと観覧車の中で会うことにしました。
まだハリーが極悪人だとはホリーには信じられません。
だけどハリーは冷酷に言い放ちます。

「ボルジア家は30年間、多くの血を流させたがルネサンスを生み出した。
友愛を掲げるスイスは、500年間平和を謳うが、鳩時計ぐらいしか作れていない。」

戦争や恐怖政治などで血塗られた時代は、その反動のように後世に残る芸術や文化や科学技術などを残す。
何も恐れる必要のない平和の中では、そこに安穏としている以上、発展させるものはなく、何も生まれない、ということなのでしょうか。

あまり考えたことがなかったユニークな視点です。
このセリフを聞いてマルキ・ド・サド侯爵のイデオロギー小説「悪徳の栄え」と、それに対を為す「美徳の不幸」の2タイトルが頭に浮かびました。
読んだことがないので内容は全然違いますが、フレーズ的には当てはまっていると思います。

ハリーの言うとおり、破壊活動のような悪徳こそが文化を発展させるものなのか。
日本も元禄時代は、井原西鶴の浮世草子・近松門左衛門の歌舞伎浄瑠璃・松尾芭蕉の俳諧、など文化が花開きましたが、江戸の大火があったり、「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士の討ち入りもあったりして、世相的には不安定な要素が少なからずありましたね。

そう考えるとハリーの理屈も分からないでもないのですが…う~ん、イマイチ釈然としません。
独裁者や破壊者は、創造主のパトロンにはなれても、彼ら自身で何かしらを生み出しているわけではないわけで…。

確かに、一例として「何か不満がある→こういうのがあったらいいな→発明品完成!」という流れは満たされていないからこそ出るものなのですが、だけど美徳は何も生み出さないとディスるのは、個人的には何か違う気がします。

恋人の敵は敵!

雰囲気のある美人で、女優として舞台で輝いているハリーの恋人アンナに惚れてしまったホリー。
偽造パスポートのためソ連側に拘束された彼女を救うため、もはや悪人に成り下がった友人ハリーをイギリス軍部に差し出す決意までします。

この純粋な愛の行動…(∩´∀`)∩アンナ、ホレチャウ~ …と思いきや、ハリーを心底好きで好きでしょうがないアンナは、ホリーを容赦なく罵倒して非難してハリー逮捕作戦のジャマをします。

「顔も名前もマヌケだわ、アンタなんか!」と、大人な風貌で小学生のような罵詈雑言。
中身残念、と思いますが、好きでもない人には結構残酷になれますよね、人間て。
ましてや自分が愛している人を投獄しようとするホリーのことは、敵とみなして攻撃的な態度を取ります。

ホリーは、アンナを愛している、という理由以上に、ハリーのせいで病院で苦しんでいる子供たちの姿を実際に見て、彼の暴走を止めるためでもあったのですが…真意は伝わらず( ;∀;)

パートナーに何かしら敵がいた場合、その相手は自然と自分の敵ともみなしてしまいます。
助け合うのがパートナーだから当然だ、とは思うのですが、パートナーのほうが悪い、という考えに至らず、真実から目を背けたまま、良く知らない人を敵として攻撃するのは、どうなのでしょう。

真実などどうでもよくて、とにかく自分のパートナーが絶対正しい、という盲目の信頼。
基本的に自分でモノを考えられず、感情の赴くままの人に多い傾向のようです。
無駄に敵を増やす行為だし、同調はよく考えてからにしたほうがいいと思います。

まとめ

アントン・カラスのチターの音色が耳につきます。
が、どうにものどかすぎてサスペンスとしては、ちょっとどうかと…

エビスビールのCMに使われているので、観ながら第三のビールが飲みたくなるかもしれません。
そうすると、登場人物の多さから人物関係がますます分からなくなってくるので、オススメしません。
観終わるまでアルコールは我慢したほうが楽しめますよー(・∀・)

 

映画好きが集まる婚活イベントはこちら!