世の中、旅行が好きな人は多いかもしれません。
ハワイや韓国など、パッと行って帰って来られるような海外旅行もあれば、ヨーロッパやアメリカなど、結構なお金と時間と気合いを入れないと、なかなか行けないような所もありますね。
知らない土地に行くのもよし、何度も通ってその土地にすっかり詳しくなるもよし。
綿密な計画を練って楽しみ尽くす人もいれば、行き当たりばったりが楽しいと感じる人も。
一緒に働いていたM君は、「ちょっと行ってくるよ」と、思いつきでふらりと旅立ってしまう、無計画派でした。
職場の人気者・M君
「M君、来週から旅行に行くんですよね?」
誰かからそんな話を聞いたので、本人に直接話しかけてみました。
M君と私は同じ職場で、彼は10才年下だけど仕事の上では1年先輩。
なので、お互いに敬語とタメ口が入り混じった会話になってしまうのです。
この時も、勤務部署のレストランで使用するおしぼりを洗って、手で巻く作業を教わっていました。
(今どき、使い捨てでも業者に出すのでもなく、自社で洗って巻くのも、離島ならでは。)
「どこに行くの?」
「決めてないんだ」
とりあえず那覇まで行って、乗り継ぎが一番早くて空席のある飛行機に乗る。
国内かもしれないし、海外かもしれない。
「いつまで行くの?」
「決めてないんだよ」
とりあえず一ヶ月くらい、でも楽しかったらもっと長くなるかも。
「そんな長く、お金かかるよ」
「え、野宿すれば良くない?」
宿代削れば、交通費と食費だけでいいじゃん。
「あ、M君の足元に箸袋落ちてますよ」
「シドちゃんにあげる。大事にしてよ」
「家宝にするわ」
そんな雑談も入れながら、仲良くやっていました。
彼は誰とでも仲良くなる。
NHKのキャラクター・どーも君のような、いかつい体躯とは裏腹に、いつも周りを気遣う優しい性格とユニークさで、話しかけやすい雰囲気がありました。
坊主頭だけど、首の付け根の部分だけ髪を伸ばしていて、3cmくらいの短い三つ編みをしている。三つ編みを編むのは、調理補助のパートのおばちゃん。
お店に飾るハイビスカスを取ってきて、と言われれば、耳に刺して鼻歌交じりに登場。
「ハイビスカスが似合う男だからな」
と、上司がつぶやく。(全く似合ってないけど)
言えなかった「行ってらっしゃい」
いよいよ明日の朝に出発するというので、M君から聞かれました。
「お土産は何がいい?」
今まではみんなにバラ撒けるのを買ってたけど、今回は個別に買ってこようと思って。
◯◯ちゃんはポストカードがいいって言ってたけど、シドちゃん何がいい?
その夜の仕事中、考える猶予を頂いて出した私のリクエストは
「国内なら、その土地の銘菓を一個」
「海外なら、その国のコインを一枚」
何と言っても、旅先が分からないので、リクエストのしようが無かったのです。
でも、日本全国どこへ行っても、お饅頭の一個でもその土地の名物があるものだし、海外なら一番小さい単位のコインを余して帰ってくるもの。
価格も負担になるものじゃないし、我ながら名案だわ、と思っていました。
本当はお土産が欲しいんじゃなくて、食べたものの写真を見せてもらったり、どんなトラブルがあったかというお土産話を聞かせてもらうことを楽しみにしていたのですが。
出発の朝、私は職場に出勤していました。
彼とは「おはよう」「行ってらっしゃい」の挨拶も出来なかったな、と心に引っかかったけど、まあ一ヶ月か、長くても真夏の繁忙期には戻ってくるだろう。
でも、昨日の夜のうちにでも「行ってらっしゃい」「気をつけて」くらい伝えたらよかった。
私なら、そう言って送り出してほしいから。
明けない、長い夏
M君の出発から一ヶ月が経ち、離島のレストランは観光客で賑わってきました。
男性メンバーが減るということは、力仕事を任せられるスタッフが減るのです。
M君不在をカバーした19才の男の子は、もやしのようにヒョロヒョロだったのに、南の島の日差しを浴びてゴボウのように逞しくなりました。
「いつ帰ってくるんだろうね」
「僕んとこは連絡ないっスね」
「よっぽど楽しいんだろうね〜、もう帰って来なかったりして?」
私が冗談のつもりで発したその言葉は、現実のものとなります。
M君は、帰ってくることはありませんでした。
てっきり、どこかの国で羽をのばしていると思っていた私たちの想像とは全く違い、彼は地元で入院生活を送っていました。
与論島を出て間も無く、体調を崩した彼は実家のある福岡に行くことになります。
元々、糖尿だったと聞いていたので、そちらが悪化したのかと思ったら、病名は「急性白血病」でした。
(どうなるの?)
(もう、帰ってこないの?)
(今の医療なら、治る病気なんでしょ?)
想像していたことと現実が違いすぎて、実感がなく、どう振舞ったらいいかわからない。
冗談のつもりで「もう帰って来なかったりして?」なんて言ってしまった自分を恨みました。
スタッフの誰にも連絡しなかったんじゃなくて、連絡出来なかったんだよね。
サトウキビ畑が、ザワザワと揺れます。
真夏の与論島の日差しはジリジリと暑いけれど、海風が吹いて気温はそこまで上がりません。
9月に入って、少し秋めいた風を感じるようになっても、日差しは夏と変わらず強く、落ちる影は濃く、いつでも海に飛び込めるくらいに太陽が照りつけます。
彼が島を出てから3ヶ月が経っていました。
「待ってるのに、まだ帰ってこないの?」
と、夏が彼の帰りを待ちわびるかのように、長くて終わらないように感じました。
私が彼のために出来たこと
急性白血病という病気について、私はほとんど知識がありませんでした。
お世話になった大学の助教授が若い頃に患ったことがあり、余命数ヶ月という時にドナーが見つかったため、奇跡的に一命を取り止めることが出来たと聞いていました。
その助教授は、命が助かった引き換えに、涙腺が機能しないという後遺症と付き合うことになります。
常に目薬を手放せず、数分に一回目薬をさすことになりましたが、それ以外は元気に生きています。
学生時代、授業中に直々に骨髄バンクに登録してほしいと言われていたのに、私はどうして登録しなかったんだろう……と、M君の病名を聞いた時に真っ先に後悔しました。
その時に登録していれば、もしかしたら、私が適合していて、彼を救えたかもしれない。
「今からでも遅くないのでは?」
と思い、調べたら、与論島には献血出来る施設がありません。
骨髄バンクへのドナー登録は、献血のシステムが整った施設でなければ出来ないのです。
一番近くて、徳之島の保健所か、沖縄本島の保健所と献血センター。
ならば、出張登録会を与論島で開催してもらうことは出来ないか?
島民は5500人ほど。
ドナー登録は55才までと制限がありますが、出張登録会に必要な最低登録数があれば、55才未満の島民に声をかけて、集められるんじゃないか?
骨髄バンクに問い合わせました。
結果は、不可。
それだけの設備と人員を手配し、離島まで移動するというコストは現実的ではありません。
簡単に治る病気ではないことは分かっています。
私一人で出来る事は無いのも、分かっています。
それでも、何か少しでもプラスに働くことをしていないと、
「もう帰って来なかったりして?」
という一言を放ってしまった事を払拭できず、申し訳なさに押し潰されてしまいそうでした。
今更ながら、彼のためと言うより、私のためだったな、と思います。
島を出るタイミングで、私だけでもドナー登録してこよう。
落ち込んだ自分にそう言い聞かせて、スケジュールを組みました。
彼と仲が良かったスタッフは、福岡の病院にお見舞いに行く予定を立てていました。
その矢先、9月半ばに彼は亡くなります。
お土産話
M君とは2ヶ月ほどしか一緒に働いていませんでした。
その短い期間で、一度だけ、上司とM君と私の三人で海に泳ぎに行ったことがあります。
少し泳いで海から上がり、他の海岸に移動しようとした時
「俺、なんか、だるいから帰ります」
と言った彼を、
「ダメだ、行くぞ」
と上司が引っ張って行ったことがありました。
今にして思えば、あれは病気の症状だったのかもしれません。
LINEも電話もメールも交換していなかったので、入院中の彼と直接連絡を取ることはありませんでした。
連絡を取り合って、励ましたり、弱音を聞いたりしていたのは、彼と同期の女の子。
彼女がお見舞いに行くはずだった予定は、M君の実家でお仏壇に手を合わせる予定に変わりました。
お葬式が終わり、M君のご家族が少し落ち着いた頃。
辛い闘病生活の中で、M君がご家族に話した事を、帰ってきてから私たちにも聞かせてくれました。
「小学校、楽しかったな」
「中学校、楽しかったな」
「高校も、楽しかったな」
「ヨロン、あ〜、めーっちゃ、楽しかったなぁ〜!」
彼は死期を悟っていたのでしょう。
過去を振り返って、人生のそれぞれのステージについて思いを馳せ、そう話したそうです。
M君のご家族からのお話を、たくさん、たくさん聞かせてくれた彼女の話は、どれも詳細で、景色が見えるようで、M君の姿がそこに感じられるようでした。
涙が溢れ出てしまいそうなのを、決して泣くものかと押し込めました。
他のみんなより一緒に過ごした時期も短く、想い出もなく、「帰って来ないかも」なんて言ってしまう私は、ここで絶対に泣いてはいけないのです。
私なんかにも伝えてくれて、本当に嬉しかった。
誰かと写真に写る時、いつも彼に撮ってもらっていました。頼みやすかったのかもね。でも、一緒に写ったことは一度もありません。
「行ってらっしゃい」は言えなかったけど、「おかえり」は、ちゃんと言おうと思ってたんだよ。
どんな景色を見て、どんなものを食べて、何をしてくるのかな、とお土産話を楽しみにしていたのですが、彼が見ていたのは病院の天井と、落ちてくる点滴だったのでしょうか。
この年は台風が多く、毎週のようにゴウゴウと天気が荒れました。
台風は秋の始まる頃まで続き、ようやく諦めたかのように、夏と共に消えてゆきました。
バトンを継ぐ
私が骨髄バンクにドナー登録をしたのは、彼の死後、しばらく経ってからでした。
私のもう一つの拠点である関西に戻った時、用事の合間に献血センターへ行きました。
登録の説明を受け、数ミリの採血。
数ヶ月も悶々としていたのに、拍子抜けするほど簡単に終わりました。
1ヶ月半ほど経ったある日、骨髄バンクから、職場に私宛の封筒が。
登録完了のお知らせか何かかな?と思ったら、「適合通知」でした。
ネット上での骨髄提供の体験談を読むと、ほとんどの方が、登録から5〜10年経って、登録したことも忘れた頃に適合通知が届いた、とあります。
こんなに早く、患者さんとマッチするなんて異例のことではないでしょうか?
「あなた、M君からバトンを継いだね」
話した友人から、こんな言葉を受けました。
彼を救うことは出来なかったけれど、そもそも私が誰かを救うなんて烏滸がましいけれど、今度こそ誰かを助けられるかもしれない。
どうやら、ドナー候補は同時に最大10名が選定されるらしく、ドナー候補者の健康状態などを考慮した上で、最終的に一人に絞り込まれるそうです。
私が実際に骨髄提供をするかどうかは、この時点ではまだわかりません。
けれど、どうしても彼の「仇討ち」がしたい。
もし私がドナーに決定すれば、それはとても嬉しいこと。
生きてほしい。彼の分も。
私は、彼から受け取ったバトンを持って走っています。
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与論島の景色は、毎日とてもとても綺麗です。
朝焼けも、昼間の海も、夕焼けも、星空も、もっと一緒に見たかった。
6月。
彼が与論島を出発してから、もう一年が経ちました。
一人で何度も泣きましたが、例えば島をバイクで走る時の、ヨロンの空と海。
一緒に見たかった彼を思い出して、まだ涙は止まりません。
M君、さよなら。
いつか生まれ変わったら、またヨロンの海を見に来てね。