(中編より続き)

3.女流棋士 里見香奈へのエール

里見香奈は、現在27歳の女流棋士である。
10代の頃から女流棋界の頂点を極め、史上初の女流5冠に輝いた。
また、プロ棋士の養成機関である奨励会に入会すると、女流棋士としては初の三段まで昇段を果たし、プロ棋士の座を賭けて三段リーグを戦った。
はっきり言って、奨励会三段の実力はプロ棋士の実力と遜色なく、下位のクラスにいるベテラン棋士よりも遥かに強い。
その証拠に、プロ入り後快進撃を続ける藤井聡太でさえ、三段リーグではトップ通過を果たしたものの13勝5敗という成績であった。
それほどまでに、三段リーグは厳しい戦いなのである。

女流棋士と奨励会の二足の草鞋を履いていた里見は心身ともに疲弊し、ついに2014年3月から12月末まで体調不良により休場を余儀なくされる。
休場中の3月に、里見が直前に防衛した第40期女流名人戦の就位式が行われた。
実家に戻り静養していた里見であったが、さすがに名人の就位式を欠場するわけにはいかない。
無理を押して、里見は就位式に出席する。
すると、一生忘れることが出来ないサプライズが待っていた。
なんと、羽生善治がふらっと就位式に現れたのだ!
羽生が自分以外の就位式に出席することなど、これまでなかったのではないか。
記者が理由を尋ねると「いや、まあ、ちょっと時間があったものですから」微笑みながら答える。

式が始まると、羽生は里見のもとに向かい、楽し気に談笑していた。
せっかくだからということで、急遽、挨拶を頼まれる羽生善治。
「里見さん、防衛並びに5連覇でクイーン名人の称号も獲得されまして、誠におめでとうございます。10年ほど前に出雲市を訪れたとき、とても強い女の子がいると聞いて、里見さんのことを知りました。あれからわずか10年の間に女流棋士になり、トップに立ち、たくさんのことを成し遂げられた。すごいことだと思います。
ただ、大切なのはこれからです。今は体調を崩されているということですので、ゆっくり静養されて万全の状態で再び素晴らしい将棋を見せていただきたいと思っています。これからも夢に向かって精進してください。本日は、おめでとうございます」

その記者は就位式が終わる頃、改めて里見について羽生に聞く。
「女流棋戦と奨励会の両立は、肉体的にも精神的にも想像以上に大変なことだと思います。大きな負担が掛かっていたのではないかと。きつい状況の中でも対局は続いていく。そんな世界ですが、やはり限度もありますので。
特殊な環境にいる里見さんには、先駆者であることの大変さが必ずあると思うんです。最初の道を通る人であるからこその苦しさのようなものが。しかし、若いので回復する力はあると思いますし、今は休むことに専念して、さらに大きく飛躍していってほしいと思います」

私は、この羽生さんの言動に言葉も出なかった。
「心温かきは万能なり」を、これほどまでに体現したものはないと感じた。
実は、羽生は2日後に王将戦七番勝負第7局を控えていた。
通常ならば、大事なタイトル戦の最終局のため、研究に時間を割きたい。
そして、2日制のタイトル戦は、普及も兼ねて地方のホテルなどに赴き対局をするため、そのための準備にも時間が必要である。
にもかかわらず、里見の就位式に訪れたのである。

おそらく、羽生は心身が悲鳴をあげるまでストイックに将棋に打ちこんだ彼女を心配し、励ましたかったのだろう。
もちろん、本人には、そんな野暮なことは言わない。
だが、必ずや、羽生の気持ちは里見に伝わったはずである。
そして、里見の辛さを誰よりも分かるのは、羽生善治だったのではないか。
「先駆者であることの大変さ」「最初の道を通る人であるからこその苦しさ」。
これは、まさに羽生自身が味わい続けた苦しみそのものではないか。
だからこそ、タイトル戦の直前にもかかわらず、里見にエールを送りに来たのだろう

4.不登校の子どもたちとの交流

以前、羽生は不登校の子どもたちから取材を受けたことがあった。
それ以降、多忙なスケジュールを調整して不登校の子どもたちを集めた学校を訪問し、さらには不登校児のために開催された大会に金沢まで足を運ぶ。

子どもというものは、屈託がなく素直に思ったことを表現する生き物だ。
突然、小学生の男子児童が「僕は囲碁の方が好きです」と宣うではないか。
凍り付く周りの大人たち。
だが、羽生は「囲碁もおもしろいよね」と優しく返事をする。
その羽生の対応に、周囲が温かい空気に包まれる。

では、なぜ、不登校の子どもたちは羽生に取材をしたのだろうか。
それは、羽生が学校に依存しない生き方を実践してきたからである。
まず、不登校の子どもが自身のことを語った。
「学校へは行ってません。でも、学校に頼らなくても生きていける自信が少しずつ芽生えてきました」
そして、「不登校の人へのメッセージは、何かありませんか」と尋ねる。
羽生は「“学校へ行かないことに罪悪感を持たない”ということが大切だと思います」と答え、続ける。
「私は中学生でプロ棋士となり、高校に入ってからも月に10日くらいは休んでいました。だから、何となく学校へ行かない人が胸に抱く違和感とか罪悪感が分かるような気がします。でも、本人の気持ち次第で、いつ始めても、いつやめても良い、学びとはそういうものなのではないかと思います。“この形が絶対だ”“こうしなければ大人になれない”という答えは、ないんだと思うんです。私は20代の頃は明確な「答え」を求めていましたが、30代以降は「答えなんてなくてもいいんだ」と思えるようになったんです。自分なりに出来ることをやればいい。分からないことや未確定なことがあるからこそ、将棋はおもしろいんだし、そこに進歩の余地があるんだと思っています」

この「将棋も人生も答えなんてなくてもいいんだ」という羽生の言葉は、不登校の子どもたちの心に深く響いた。
羽生は、しばしば、定石では不利だと結論付けられている手を指すことがある。
しかも、タイトル戦などの重要な対局でも迷わず踏み込んでいく。
将棋は局面ごとに候補手が無数に存在するため、とても全てを読み切れない。
将棋が“81マスの無限の宇宙”と喩えられる所以である。
なので、羽生は常識では不利としか思えない手を選択し、将棋の可能性をとことことん追求するのである。
彼の言葉が子どもたちの心に届くのは、嘘偽りなく自らがそれを実践しているからではないだろうか。
だからこそ、彼の言葉には真実の重みが加わり説得力がある。
我々大人は、とかく色眼鏡という先入観で判断する。
常に固定観念にとらわれず、柔軟に、そして新鮮な目で物事を見ることができる羽生さんを見習いたい。

そして、彼等に送った最後のメッセージが“3手の読み”である。
羽生は、この“3手の読み”をいつも大切にしているという。
3手とは、まず1手目を自分が指し、2手目が相手、そして3手目が自分。
ここで最も大事なのが、2手目の相手の指し手、つまり相手がどう考え反応するかである。
人は「相手の立場に立って、自分の価値観で考えてしまう」のだと羽生は語る。
相手の価値観で考えてこそ、相手の対応が読めるのだと言うのだ。
これは、何も将棋に限ったことではない。
人との関わり合いの中でも、つい見失いがちだが大切なことではないだろうか。
目から鱗が落ちるとは、まさにこのことである。

羽生さんの才能の定義

羽生さんの数ある名言の中で、特に素晴らしいと感じた言葉がある。
「以前、私は、才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし、今は10年とか20年、30年を同じ姿勢で同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている」
「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私はそれこそが才能だと思っている」

だいぶ前になるが、私は将棋雑誌で浦野真彦というプロ棋士のインタビュー記事を読んだことがある。
将棋の棋士は、みな例外なく天才であり、将棋に対する情熱は我々凡人には計り知れないものがあるに違いない。
ところが、そんな棋士の一人である浦野真彦は、将棋に対するモチベーションを保ち続けることが難しいと答えていたのである。
あの厳しい世界で、倦まず弛まず将棋に向き合い続けることの難しさを垣間見た気がした。

翻って、羽生さんは棋界の頂点に立ってから30年近く経つ。
25歳という若さで7冠全冠制覇を達成し、普通なら目標を見失ってもおかしくない。
「なぜ、彼は棋界の頂点に居続けることができるのだろうか」というかねてからの疑問に対する答えが、上記の箴言で得られたのである。

7冠達成直後、羽生さんは今後の目標を聞かれ「後世に残る棋譜を残したい」と語っている。
それからの彼は現在に至るまで、さながら将棋の内容と真理の探究を志す求道者のようである。
眩いばかりに煌く才能に恵まれながら、「継続は力なり」という地道な努力を続ける羽生さんだからこそ、長く棋界の第一人者たりえていたのだろう。

まとめ

平成最後の棋戦となるNHK杯の決勝戦で、郷田真隆九段を破り11度目の優勝を果たした羽生善治九段。
この勝利により、タイトル戦以外の一般棋戦で45回目の優勝となり、大山康晴十五世名人を抜き単独トップに立った。
また、昭和から平成に跨って行われた第38回NHK杯戦において弱冠18歳で大山・中原・谷川・加藤の歴代4名人をなぎ倒し、鮮烈な初優勝を飾ったのも羽生善治であった。
まさに、羽生善治で平成が幕を開け、羽生善治で平成を締めくくった将棋界。
元号が変わり新しい時代になっても、羽生善治は将棋の可能性と未来を追い続けるに違いない。
きっとそこには、人々の心を和ませる爽やかな笑みを湛え、泰然自若とした決して変わらぬ羽生さんがいるだろう。

(完)

 

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