結婚生活は、良いと悪いの繰り返し、である。

夫への優しさは、たまにくらいがちょうど良い

嫁の私がいうのもなんだが、私の夫は、健気な男だ。「お茶飲む?」なんて私が聞くと、嬉しさを含ませた「うん」という返事が返ってくる。夫は普段、自分のお茶は自分で用意するし、なんなら「お茶飲む?」と、嫁の私に聞いてくる方である。

私の母はどうだったろうか…ふと気になり思い返してみた。

私の母は、食事の途中でお茶をいれる人だった。「そろそろ喉が乾くころかしら?」そんなタイミングを母なりに想像してのことだったのだろう。確かにそのタイミングはベストだったし、母がいれたお茶を家族のみんなは当たり前のように飲んでいた。

あれは当たり前のようでいて、母の愛そのものだったのではないか。食事の途中で立つのは面倒なはずだし、一度に全部を済ませたいと私なら思ってしまう。一度座ればもう2度と立ちたくないと思うのは、学生のころのあだ名が「ナマケモノ」だった私だからなのかもしれないが、やはり面倒なことであるのは確か。

ナマケモノで思い出したが、「旦那、尻に敷いてるやろ」と、周りの人からよく言われる私。ナマケモノとどう繋がるのかはさておき、実際のところ、それは違うように思う。夫自身、私の尻に敷かれている自覚はないようだし(本人確認済)、私自身、夫を自分の尻の下に敷くくらいなら、座布団を尻の下に敷いた方がよっぽど良い。その方が、座り心地がはるかに良いからである。いくらナマケモノであっても、心地よさへのこだわりはある。

嫁に行くと家を出た日、祖母から、「これからは家に尽くしなさい」と言われた。けれど、結局のところ、夫に何も尽くしていないような気がする。尽くす…って、何だろうか。夫婦となり、二人三脚で歩みを進める「同志」になった。もう2人の間には、恋人同士のような甘さやゆるさはない。話したくもないお金の話、ご近所や親戚、親について話をするようになったのだ。これは、ある意味で言えばステップアップだし、ある意味で言えば、「新鮮さを失う覚悟を決めた男女」とも言える。

例えば、胃袋を掴むと良い、などというアレ。アレだって、うちの夫は自分で料理をする人間であるし、なんなら、自分のその日に食べたいものを頭の中で妄想し、仕事帰りにスーパーへ立ち寄り、カゴを片手に材料を買い込むことが趣味でもある(とても忙しい時を除いては)。だから私たち夫婦間において、アレは意味を成さない。アレをするくらいなら、夫婦で会話をする方が、よほど精神安定に繋がる。

夫婦によって、心の拠り所は違うと思うのだ。教科書には載っていない、自分たちなりの答えを出していく作業。それが「結婚生活」というものであると私は考える。

夫婦生活は、山あり谷あり

今でこそ、そこそこ仲良くやっている私たちだが、結婚当初はギクシャクすることが多かった。いつまでも恋人同士のように、男と女という、持って生まれた個の魅力を実感し続け、相手からも受け取り続けていたいと思う気持ち。その反面、簡単に別れることのできない「夫婦」になったことへの安心感は、男女の2人の間にあった緊張感を和らげ、同時に、男女である必要がなくなってしまう始まりでもあった。

安心と引き換えに、私たちは、互いの存在がいつしか特別なものでなくなり、とても「当たり前」の存在になってしまったのだ。

それら一連の流れに対し、仕方のないことだと言う人もいるけれど、私はそうは思いたくない。しかし、毎日一緒に生活を共にしていると、自分の生活のある一部分を切り取り、そこだけを見せていた恋人同士の頃と比べ、やはり何かが変わってしまった。

そうなるとわかっていながら、結婚を選んだわけではない。けれど、結婚しないとわからないことが、本当にいくつもあった。そのいくつもは、良いこともあれば、悪いこともある。だからこそ、夫婦という関係には、何かしら2人を繋げる強いもの、深いものがなくては、結婚を続けるのは難しいのではないか、と何度も感じてきた。別れることは簡単にできない。だとしても、心が離れてしまったらおしまいだ。

きれい事だけでは済まされず、話したくないことを話さなければ、いつでも心が離れていってしまう。大切なことほど、面と向かって話をできなかった私たちは、いつからか、それらをきちんと話せるようになった(全てではないが)。そしてそれは、簡単なことではなかったし、時間も精神的労力も必要だった。

大切なことを話さねばならないのは、見ぬふりばかりできないのは、恋人同士と比べ、何がどう変わってしまったからなのだろうか。夫婦って、なんだか特殊だ。幸せになりたいから夫婦になる。幸せな2人だから、夫婦になるはず。なのにどうして、ずっと幸せばかりが続かないのだろうか?「他人同士なんだもの、仕方がないよ」なんて言われるけれど、そんな単純なもの?

尊敬だけでは、夫婦は続かない

「結婚相手に望むものは?」そう聞かれたら、「尊敬する部分がひとつでもあること」と答えていた。しかしどうやら、尊敬だけでは続かないらしい。

私の知人であるAは、子供ができたタイミングで結婚し、子供が生まれてからは、すっかり夫婦関係がうまくいかなくなったそう。パニック障害を抱えながらも懸命に子育てに励む彼女。美容師をする夫は仕事が忙しく、家にいる時間も少ないため、ほぼワンオペ育児状態。彼女の精神状態が悪化した時は、実家の母に頼ってなんとか過ごしているそうだ。

彼女から夫への不満は爆発寸前というより、すでに何度も爆発を繰り返しているし、夫婦仲もあまりよろしくない様子。そんな彼女だって、最初から彼に不満があったわけではない。付き合っていた当初は彼のことをとても大切に思っていたし、今でも変わらず、大切に思ってはいる。今まで付き合ってきたどんな男性と比べても、彼は圧倒的に魅力的で、尊敬できる人だと言っていた。今でこそ夫への不満や愚痴はたっぷりあるだろうけれど、夫への愛が冷め切っているわけではない。ただ、体と心のバランスがうまくいかないことや、初めての育児、家に1人こもる寂しさなどいくつもが重なり、不安定になってしまうのではないか。

ある日、彼女がふと言った「尊敬だけで選ぶんじゃなかった」という言葉。私がずっと大事だと思っていた部分を、彼女はサラッと小さな虫を払うかのように、自分の足元へ落とした。

尊敬できるからこそ、どれだけ腹が立っても立ち直れる、そう思って信じてきた。当たり前だが、私は、彼女にはなれない。彼女の気持ちを想像するしかできない。だから、簡単にその気持ちを想像の範囲で語ることは、彼女を傷つけるのと同じなのではないか、と思ってしまう。とは言え、彼女がポロリと呟いたその言葉を、どうしても忘れられないでいる。

私の気持ちは私にしか語ることができないのと同じように、彼女の気持ちは、彼女自身でしか語ることができない。

結婚しても、女は女でい続けたい

私の周りには、不倫が原因で離婚することになった友人が数名いる。

不倫は良くない、と思う。完全否定できないのは、色んな背景のある不倫がこの世の中には存在するということを、少しだけ知ってしまったから。どちらかが結婚していれば、異性同士の交際は、不倫とみなされる。お互いに結婚しているもの同士ならダブル不倫と、まぁなんとも当たり前なそのネーミング、センスの欠片すらない。

不倫もダブル不倫も、その両方の話を聞いてきた私がひとつ言いたいのは、不倫していることを自慢する人間だけは、信用できない、ということ。「不倫なんて当たり前。不倫してない人の方があり得ない」なんて言う人までいるが、夫の不倫が原因で、突然離婚しなくてはならなくなった友人の憔悴っぷりをこの目で見てきた私は、どうしてもこの言葉には納得できないでいる。

最近聞かされた不倫自慢は、こんな話だ。「相手の男が、私を好きで仕方がない。私は好きじゃないけど、美味しいご飯を食べさせてもらえるし、仕方がないから付き合ってあげている。」という話。こんな話を延々と6時間も聞かされた挙句、「今からその人とご飯だから」と、解散のタイミングも己のタイミングで決めやがった。思わず腹が立った私は、20年以上もの友人関係に、一旦終止符を打とうと決めたものだった。彼女は私との会話の最中、この言葉を何度も口にした。「私は好きじゃない、相手が好きと勝手に付きまとってくる」。

双子の子供を育て、夫とは、いつしか男女の関係から、子供を育てる父母の関係になった。夫のことは大事だが、女を捨てきれない彼女、その気持ちは正直良くわかる。女らしい部分が極端に少ない私ですら、たまには「素敵ですね」なんて言われたりしたら嘘でも嬉しい。それを毎日のように言われる彼女を想像すると、そりゃぁ浮かれもするわな、なんて妙に理解できたりするが、やはりそこは不倫。どこかでストップを効かさなければ、その後行き着くところは良い場所でないのは確か。

しばらく閉まったままになっていた、自分の中の女の部分。そこを、ストレートな言葉と行動によって刺激され、大胆に誘われる。第2の女としての人生を楽しみたい、彼女はきっとそんな風に思いもしたのだろう。今でもおそらく、その人と密かに会っている。この話を誰かに話したくてたまらなくなり、私だけでなく、周りの友人にも話をしているようだが、どこからか、夫の耳に話が入らぬことを願うばかりである。

夫婦をつなぐもの

12年目に突入した私たちは、「良い時も悪い時も乗り越えてきた」なんて、簡単な言葉では言い表せないほど、本当に色んなことがあった。

健やかなる時は、足で夫に指示を出し、病める時は、夜中であってもポカリを買いに行かせた嫁。そんな嫁のことを嫁として受け入れることを誓い、サインと印を押してしまった男が、私の夫である。

しかし、何も言わずとも目の前にお茶が出てくることだけが健やかさである、とは言い切れないと思うのだ。

20代半ば、結婚してすぐの時、私は仕事でひどく悩んでいた。その時、夫が物凄くシンプルな言葉を私に言ったのだ。1人で生きることですら、辛いことも楽しいこともつきまとうのが人生。結婚し、2人の価値観をすり合わせる度起こる摩擦で、どれだけ火傷し、その火傷のあとを治すために、またどれだけ時間がかかるものか。

人生も、そして結婚も、その道中は良いことばかりではない。だからこそ、極力シンプルな考え方で生きていきたい、と思うようになった。一見単細胞な夫に対してよく腹が立つが、単細胞だからこそ、しんどい時も上手に乗り越えられる。なるべくフラットで、余計に慌てず、パニクらず、冷静に物事を俯瞰し、ただゆっくりと前に進む。そんなことを教えてくれたのは、どんな映画でも本でもなく、1番近くにいる夫である。

何事も、複雑に考えてしまうと、ドツボにハマる私は、しんどくなりやすい。しかし、シンプルに考えれば、それほどのことではないことが、いっぱいある。結婚相手は、所詮は他人。パーフェクトは望めない。そんな私も、パーフェクトな人間ではない。お互いが常に発展途上なのだ。結婚は、夫婦は、尊敬だけでは続かないだろう。それだけ、長旅なのだ。

そんな旅の道の途中、ふと気づくことがある。私たちの旅は、基本自家用車だ。電車や飛行機には乗らない、2人だけの時間を2人のペースで進みたいのが理由である。運転するのはいつも夫で、助手席はいつも私が乗っている。運転する夫の横顔をふと見ると、ひとつ、よぎる想いがある。

「そうだ、私。この横顔が、好きだったんだ」