長い連休が、やっと明けた。普段は、1人の時間が長い私。この10連休、ずっと主人と2人だった。

長い連休がある場合、猫たちは、決まって寝不足になる。普段は居ないはずの主人が家にいることが、嬉しいんだと思う。毎日のように家にいる嫁には、もう、ありがたみのカケラすらないらしい。

主人と遊びたい気持ち、甘えたい気持ち、猫なりの主人への大きな愛が膨らみ、猫らしくもなく、不規則な生活になるんだそう。

猫も人間も、生き物であることには変わりない。猫にも体内時計があるらしく、それが狂うことで、体調が悪くなったり、疲れやすくなるみたいだ。ちょっと可笑しい、そして、可愛くて愛らしい。

猫と暮らし、細かく観察すると、毎日が発見の連続のような、飽きさせない魅力がある。猫はやはり、凄いのだ。

猫は猫、子供の代わりじゃない

ある人が、こんなことを言った。「ペットを飼っても、心の隙間は埋まらない」。ごもっとも、ごもっともですとも。

私だって、心の隙間を埋めるために、猫を飼ったわけではない。しかし、猫は、心の隙間を埋めてはくれない、かもしれない。けれど、何かを満たしてくれるようには感じる。この気持ちをうまく言葉にできない。でも、なんだろう。敢えて言葉にしたくない気もする。

大切なことは、頑張って言葉にしないのが、私の主義だから。

例えば、子供に恵まれず、子供の代わりにペットを飼う、なんていう人がいるのかどうかはわからないけれど、そんな夫婦がいたとする。そんな夫婦の在り方について、違う人が、こうも言っていた。

「子供のようにペットを可愛がる人がいるけれど、わたしには、その考えが、ちっとも理解できません。自分に子供ができて、子供とペットの違いを、より一層、実感しました」。

違い。それは違いという言葉ではなく、子供の存在の大きさ、そして偉大さ、尊さを感じた、そういうことだろうと思う。素晴らしいこと。けれどね、それは、言葉にしなくても良いと、私は思ってしまった。

自分の中に置いて、より一層、子供を愛し続ければ良い。だって、こんなことを言われてしまったら、子供がいない私は、「子供を持たぬものには、一生死ぬまでわかることない気持ちですよ」そう言われているように感じてしまう。

被害妄想というか、きっとその人は、そう言いたかったのではない。それはわかる。けれど、子供がいなくて猫と暮らす私からすると、この言葉はちょっと、心が痛くなる。

女の生き方は、それぞれ

社会でバリバリと活躍する、私の友人。私から見る彼女は、とてもかっこよく、尊敬や憧れすら感じる。彼氏はいるらしいが、結婚はしていない。

結婚したことを後悔はしていないけれど(たまにムカついて、「別れてやる!」なんて思うことはしょっちゅうあるけれど)、いくつになっても、社会という場で輝き、目標を持ち続けたいな、と心のどこかでずっと思いながら生きている。きっとそれは、私の中にある、強い承認欲求からくるものなのだと思う。

しかし、独身の彼女からすると、「早く子供が欲しい。恋人はいるけど、いつどうなるかわからないし、結婚や子供のことは、この先どうなるかわからない。仕事では中堅の立ち位置になり、上からも下からも色々言われ、自分には何が残るのか…と、不安になる。」なんてことをぽろっとこぼしていた。

もしも私が彼女と同じ立場なら…同じ気持ちになる気がする。

どれだけ社会に貢献し、彼氏もいて、お金もあって、何不自由なさそうに周りからは見えたとしても、自分の将来への不安はついてまわる。

自分という人間としての目標や夢、それと別にして、女としての幸せ。

結婚、出産。結婚はいつでもできるかもしれないけれど、出産にはタイムリミットがある。子供が欲しいと強く願うなら、年齢を重ねるにつれ、やはり、焦る。

私の場合、子供は自然とできたらそれはとても幸せなことで、できなくても、主人と一緒に暮らせたら、生きてゆけたらそれで良い、そう思って日々暮らしている。これは何も、ノロケではなく。

子供のいる友人と話していても、どこか噛み合わない会話。それはもう、しょうがない。割り切って付き合うとかそういうものではなく、なんだろうか…きっと、子供が大きくなったらまた、昔のように、夜に飲みに行ったり、カラオケに行ったり、そんな時間が戻ってくるような気がしている。

友人は今は子育て真っ最中。私は、一体、何に真っ最中なのかわからないが、ちょっとそのことに不安にもなるが、自分で選んだ今だから、決して後悔はない。

けれど内心、置いて行かれたな、ちょっと寂しいな、そんな気持ちになることは、正直言ってある。

猫のもふもふに癒されて

ある人が言った、「猫は子供の代わりにはならない」という言葉。その言葉はずっと私の中に、反響し続けている。気にしていないフリをして、私はきっと、気にしているんだろう。その言葉のことを、もうずっと。

子供の代わりにはならない、猫の存在。そりゃそうだ、だって猫は、猫でしかないもの。

もふもふの体毛は柔らかく、そして暖かい。生きているからこそ、ゆっくりとお腹が動き、ゆったりと呼吸する。

落ち着いていれば、胸元にある心臓は、リズムよくゆったり打つ。不安な時は、早い心拍数で、こちらまで心配させる。

小さな体で、この世界を生きている。生命という分類において、私も猫も、同じ物体なのだ。そしてそれは、誰かの子供であったとしても。命は同じ、全て、生きて、心臓の鼓動をこの世界に打ち続けている。

顔をお腹に埋めると、太り気味の我が家の猫のお腹のお肉に、顔がパーンと跳ね返される。食欲がある証拠。元気な証拠。全部、生きている証拠だ。

そうだ、私はきっと、猫が表現する生命力、そこに、生きる活力や希望をもらっている。

心が折れそうな日、寂しさ募る夜。亡くなった先住猫、ごましおのことがふと頭によぎり、ものすごく悲しくなる時。そんな時、ぎゅっと猫を抱きしめるだけで、心がピクんと生き返るのだ。

私は、心から、猫に生かされていると思っている。

猫は、子供の代わりにはなれない。そして、子供だけでなく、他の何かの代わりにもなれない。それは、その猫自身が尊く、代わりのない存在だから。

丸みを帯びた三角形の鼻は、程よくピンク色の血色で満たされ、たまにピクンと鼻の下を動かす。身体をさすると、眠っているのか、手をふみふみしてお母さんの愛情を欲しがる素振りをする。そんな様子の猫を見ていると、心がふんわりと、猫の毛のような柔らかさで包まれる。

猫は、ふとした瞬間、こうして私の気持ちを和らげ、寂しさを完全に埋めはしてくれないけれど、程よい温度で、心の芯から包み込み、温めてくれる。

子供がいない私は、猫と子供を比べることができない。それは、悲しいことや、残念なことなのだろうか?子供がいない私だからこそ、猫の存在が、色濃く自分の中に息づいている、そう思うのだけれど、それは、間違いなのかな。

私は確実に、幸せものだと言えるぞ。どこかの中心で、叫びたいほどに。

 

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