ここのところ「仕事、楽しい?」とよく聞かれます。

楽しいことは、正しいこと?

楽しい気持ちは、自然とそこに湧き出るようなもので、楽しい気持ちは、意識して持続させるようなものではない。「楽しい詐欺」じゃないか、と思ってしまう。

正直言ってしまうと、仕事は、ほぼほぼ辛い。しかし、そんな辛い中感じる「達成感」や「喜び」といった感情が、私を次に奮い立たせるひとつの源になっているのは、確か。辛いばかりではないが、楽しいばかりでもない。それが、私にとっての仕事。

なので、「仕事、楽しいですか?」への返事、わざわざこんなに長い答えを言うわけにもいかないので、なんとか一言で片付けたいのだが…いかんせん、私には語彙力というものが欠如している。よって、一言でうまいこと返せない、というわけ。

「楽しくない」と言うと、「楽しくないのに、よくやれるね」なんて言われるし、「楽しい」と言うと、なんだか自分に嘘をついているような、しっくり来ない気持ちになる。

ひとつの質問に対し、ここまで神経質に考えてしまう自分は、ちょっと面倒な奴なんだろうなぁ。。。

ある時、WEBデザイナーの友人に、この質問を投げかけてみた。すると彼女は「楽しいですよ」と、ほぼ即答。驚いた。けれど、仕事が楽しいと言って退ける彼女のことを、羨ましいとは感じなかった。

彼女は、私が楽しいと思えない「仕事」に対して、楽しいと言った。しかし、どうして、そんな彼女のことを、私は羨ましいと思わないのか。

それは、私にとって仕事とは、『楽しくなきゃダメ』なもの、ではないから。むしろ、「楽しくなくても続けることができる」そんな仕事に出会う方が、私にとっては、ずっと面白いし、ただ楽しいことを追い続けるよりも、得るものが多いような気がするのだ。なんとなくだけど。

楽しくなくても、人生は続く

20代の頃の私は、社会というコミュニティーの中で、ひとり、孤立することが多かった。

その理由のひとつとして、私は、人間を舐めていたのだと思う。

人間の、本当の恐ろしさや冷酷さ。そういったものを、まだまだ知らない子供だった。平和な環境で育ってきた証拠でもある。

平和しか知らない私は、社会に出て、たくさん傷ついたし、大の大人に、平気な顔して裏切られもした。社会では、信じられないことがどんどん起こる。それらにショックを受けてしまい、社会に何も期待しない、そう決意した。

私はひとり、自由に生きていく。

この時の私は、本当の自由が何なのかを知らなかった。「何にも縛られず、自分のしたいことを好きなだけ、欲しいものは全部手に入れて、言いたいことを言い、聞きたくないことは聞かず、誰の指示も受けない」それが、真の自由だとばかり思っていた。

しかしそれは、ただの自分勝手というもので、周りからはますます浮いてしまい、理解されないことは他人のせいにし、いつまでたっても、同じ場所で足踏みしてばかり。

人間、他人と交わることにより、角が取れて丸くなって行くと、ある人から聞いた。

面倒な社会から、早く逃げたかった、当時の私。何度も立ち向かい、敗れ、傷つき、挙げ句の果てには、人間不信にもなり。しかしそんな中、私のことを、静かに見守り続けてくれる人たちもいた。それは、家族、友人、そして、今の主人。

どれだけ辛くとも、孤独であろうとも、必ず誰かが、私の味方でいてくれる。だから私は、どうにか立っていられたし、進もうと思えたのだ。

ふと思う。私なんて、自分のことだけで毎日精一杯。なのに、子供を育てている友人たちは、自分のことよりも先ず、子供のことを優先している。自分の時間なんてまともになく、限りのない愛情を、我が子に注いでいるのだ。

眠れない日々も多いだろうに、それでも、子供を大切に思い続ける、母となった友人たちは、本当の意味で偉大過ぎる。

私はこの先、自分が親という立場になり、そこで感じる苦しみ、そして幸福などを、肌で感じることはできないかもしれない。だとしても続いてく、私の人生。

その人生。私の人生を、どう生きるのか。どう、生き抜いて行くのか。

人生そのものは、「楽しい」ことばかりではなく、信じられない悲しみに出会いうこともある。予想以上に酷なものだと、今の私は感じている。しかし、仕事と同じく、幸せな瞬間だってたくさん訪れるのだ。

食べたいと思うものを、自分にちょうどいいだけ

「生きるために、食べる」これは、私の中で決めた、一つの目標というか、決め事である。

私は、食べることにそれほど興味や執着がなく、台所に立つのも主人だから(今は違うけれど)、正直、食べられたらなんでもいい、なんて性格である。

しかし、今年に入り、ある方から「元気や食欲がなければ、その時、何か口に入るものだけをちょこっと食べたら良いのよ」そう教えられた。この言葉の本質、それは、

「何事も、難しく考えなくても、良いのよ」。なのだと、私は感じたのだ。

私は、どうにも消化仕切れない感情が募ると、それと比例して、食欲が減ってしまう。こればっかりは、どう頑張っても、自分の癖のようなもので、かれこれ15年近く、こんな感じが続いている。

しかし、食べられない時に「食べろ」と言われることほど、辛いことはない。喉元がキュッと閉まるような感覚がして、より食べられなくなってしまうのだ。

『いま、食べたいと思うものを、自分にちょうどいいだけ、美味しく食べるのが口福。』

これは、沢村貞子著 私の献立日記の中の一文。

無理に、正しい量を、正しく食べなくても良い。その時の自分に、ちょうど良い量を食べる。ある人から教えられた言葉と同じく、この言葉にも、『生きる哲学』が入っている。

ただ「正しい」ことばかり追うのでなく、今の自分自身を良く見、感じること。心の目を、耳を、感覚の鋭さを養うことの大切さ、そんなことを教えられる言葉である。

20代前半、無茶な働き方をし、げっそりと痩せてしまった時に、ホルモンバランスが崩れ、食事が乱れたこともあったが、私もそろそろアラフォーに突入し、主人はというと、40を越えてしまった。

これからは、一にも二にも、体調管理が大事になってくる。そんなことを、ひしひしと感じる日々を送っている。食べることにいくら無頓着な私でも、「食べると元気が出る」なんて当たり前のことを、歳を重ねるたび、身体と心で、実感せざるを得ない年齢まで来てしまった。

猫と暮らせば、人生が楽しくなる

我が家の猫たちは、本当によく食べる。食べたら遊び、喧嘩をし、猫パンチを炸裂させる。飽きたらまた寝て、また食べる。それの繰り返し。365日全てがそんな調子だから、飽きないのかしら?と思ってしまうが、きっと飽きていないから、そんな感じで繰り返しているんだろう。

メス猫は、その辺に落ちるゴミやホコリ、たまに虫などをペロっと食べてしまうから、困ったものである。

オス猫は、飼い主の目を盗んでは、食卓のご飯を狙い、ペロリと一番うまい部分を舐めてしまう。そのせいあってか、2匹ともすくすく育ち、オス猫にいたっては、猫のくせにメタボリックの診断を2年連続で受賞。これまた、困ったものである。

ボンレスハムのような豊満ボディーを引き連れ、家の中を闊歩するオス猫は、なかなか貫禄はあるが、ただの肥満猫なだけであるのが、残念でならない。

猫じゃらしで遊んでやっても、すぐにコテンと横になり、「寝ながら遊ぶんで、じゃらし、振ってくれるかー」といったご様子…。この調子では、おそらく、次回の健康診断結果も、メタボリックに違いない。

自分が食に無頓着だからかわからないけれど、私は、良く食べる人が好きなのだ。猫も同じく、良く食べる猫が好きである。

もしかすると、オス猫がメタボリックなのは、飼い主である、私が悪いのかもしれない。

最後は、オス猫の悪口で締める。全く関係ないのに、オス猫よ、コラムのネタに使って、ごめにゃさい。

 

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