自分の言葉って、一体ほんとは、誰のために使うべきなんだろうか?最近の私は、言葉について、改めて考えさせられている。

良くも悪くも、言葉の力

パソコンがない時は、紙に。パソコンを手に入れてからは、パソコンのメモ帳機能に。そして今、インターネット回線を使い、世界中どこにいても、私の書く文章が読める状況になってしまった。

離れて暮らす家族や、近しい友人。普段は物静かな主人も、たまに私の猫ブログをチェックしていると知り、これには驚いた。間違っても、主人の悪口は書けないな…。

どんな人が見るかわからないからこそ、そんな思いもあるけれど、その反面で、近しい人とのコミュニケーションの大切さや、言葉の重要性、重み、などについて、私自身、忘れてはならないな、と改めて考えさせられる。

自分が、思ったことをストレートに言葉にしてしまう性格で、それを自分自身、許してきてしまった、そんな風に思う。私が放つ言葉によって、きっと、幾人かの人を、傷つけてきてしまったんだろう。そんなことを、ふとした瞬間に思ったりして、1人で反省したりする。

言葉で自分を表現する、伝えたいことを言葉に乗せて、誰かに届ける。言葉は、とても素敵なもの、そして、美しくもあって欲しい。これは、私がずっと昔から、言葉の魅力に魅せられてきた人間だから。

言葉の面白さ、豊かさ

言葉は面白い。

例えば、言葉を平仮名で表記すると「ことば」。漢字にすると「言葉」。カタカナなら「コトバ」。

人によっては「どれも同じじゃないか」と思うかもしれないけれど、違う人は、こう思うかもしれない。「『ことば』は丸くて子供にも伝わりやすい。『言葉』はなんだか、大人向けで、難しそうなイメージ。『コトバ』は、コロコロと音が聞こえそうな、ポップで楽しい感じ」。

同じ言葉でも、書き方次第で、ちょっと感じ方が違うもの。そう私は思っているというか、ちょっと信じている、とも言える。

そうは言っても、私は自分の範囲内でしか言葉を書いてこなかった人間。どうすればたくさんの人に、自分の気持ちや思いを的確に表現できるのか。これは、とても難しいし、いつも頭を悩ませる。

些細な、明らかに誰にも読まれないであろう、一般主婦の私の個人ブログ。毎日のアクセス数は平均して10件にも及ばない。そりゃそうだ、私のブログは、まぁ面白さのカケラすらない。

そんなブログでさえ、何度も書き直し、結局アップしないことも。臆病な自分の性格が、こんなところにも現れるなんて…。もっと自信を持って、間違えることや、未熟な部分でさえ、表現のひとつとしてしまえたら、どれだけ良いのだろうか…。

とあるライターさんが、こんな言葉を漏らした。「私、自分の言葉を書きたいんです」。

とても美しいその女性は、その容姿を生かし、美容関係のライターをしているそう。こんな田舎に、こんな美人がいたなんて…と、その惚れ惚れするほどに美しいお顔を、チラチラと何度も見た、あの日。

そのお顔よりも印象に残ってしまった、「自分の言葉を書きたい」という、彼女の言葉。

彼女が届けた美容の情報により、今よりもっと、美容を好きになる女性が生まれるんだろう。しかし、他人の私から見える部分と、仕事として取り組む彼女が見る、美容の世界。その間にある、彼女なりの思いや葛藤。

どんなことも、やってみた人間にしかわからない部分が必ずあるのは、どんな人間にも共通すること。そんな中で、自分がどうしても手放したくないものだけは、ハッキリとしておくべきだと。

彼女の言葉を聞いたお陰で、私は改めて、自分の大切なコトを、もう一度ぎゅっと抱きしめてみた。

宝塚星組「アルジェの男」を観て

先日、宝塚星組「アルジェの男」を観劇。何度も再演されたことのある、歴史ある演目。クラシックな衣装は、懐かしさ混じりの美しさを滲ませる。

舞台の上、ひときわ輝いたのは、やはり、センターに立つ、礼真琴の存在。伸びやかな歌声は、会場の壁を突き抜けるのではないかと言うほどに、どこまでも、どこまでも、力強く駆け抜けてゆく。

「アルジェの男」は、衝撃的なエンディングで幕を閉じる。本当の愛に気づいた時、自分にとって、本当に大切なもの、それに気づいた時には、もう遅いのだ。

物事には、手遅れになってはいけないものが、必ずある。自分にとって大切なものだけは、絶対に、手放してはならない。

自分の軸、自分を支えるもの。それを失くしては、自分でなくなってしまう。自分にしかできないこと、書けない言葉。

私もあの美しい彼女と同じく、自分の言葉をいつまでも追い続ける責任がある。それは、自分のためである。そして、手遅れにならないためにも。

人間も言葉も、丸く、丸く

私にとって言葉とは、「消費」「情報」ではなく、「表現」のひとつ。そして、自分の一部でもある。自分を大切にする方法のひとつとして、言葉というものを捉えてもいる。

悩みを抱えた時、ノートにそれらを書き出すと良い、と聞いたことがあるが、あれはあながち間違いではなく、私にとっては悩みを解消する、有効な手段として使っている。

書き出すことで、自分の中に潜る気持ちを確かめることができる。そこで知る、自分の本当の思い。向き合うとは違う、今の自分を知る、という感覚。

不恰好な言葉たちは、本当の自分を表している。形にとらわれず、思いのままに書き出す作業は、他ではなかなかできないものであり、自分にしか見せることのできない、なんとも未熟で未完成なもの。しかし、その未完成な感じこそ、リアルな自分に一番近かったりする。

形を綺麗に整えようとすればするほど、リアルから遠のいてしまうことがある。言葉も同じく、この言葉は、はたして、私の言葉?と、疑問になることも。

歪で正直なものを、自分自身でヤスリをかけ、磨き上げる。角を取り、丸く形成したり、ザラザラの表面を、つるりと光らせる。それにより、たくさんの人が目にし、心地よく受け入れて下さることに繋がってくれるのだろう。

最初から美しく形成することに意識を向け過ぎてしまうと、次は中身が空っぽになってしまうし、自分ではない、他の誰かの言葉を連ねてしまいかねない。

人間も、言葉も、揉まれながら、丸くなる。そして、繋がってゆくのかもしれない。

形にとらわれ過ぎてはならず、かといって、不恰好なままでは、いつまでも半人前のまま、なんだろうなぁ。あぁ…と、思わず声が漏れる。

猫のように、愛らしい人に

丸い、で思い出しのだが、またしても、猫のハナシになりますが…。

猫が可愛く愛らしいのは、丸いからなのかな?なんて、ふと思う。丸いボディーに、丸い顔。そして何より、クリームパンのような、まん丸のお手手。その手に、プニプニの肉球を忍ばせ、猫パンチをくらわす時には、ちゃんと爪を隠す、猫流マナーがちゃんとある。

ぷっくりとした口元には、オヤツや水がついていることも。どこか未完成、だからこそ、構ってやりたくなる。あぁ、私もそんな女になってみたい。

未完成ではあるが、構ってやりたいと、守ってやりたいと思わせることは、私には不可能に近い。華奢とは言えない体つきに、低音ボイス。電話口から「息子さんですか?」なんて言われる私は、いつになれば、猫のような、可愛くて愛らしい人間になれるのか。

せめて来世、いや、できれば今世で、お願いしたい。この言葉に、嘘はない。

 

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