「家族とはいえ、程よい距離を保っていたい」そう思うようになったのは、過保護だった母の存在が、強く影響している。家族は、親子は、仲良くなきゃダメなのだろうか?

甘党の母

今年の母の日は有名スイーツブランドのケーキを注文し、実家に届くように手配した。母の日の宅配便はとても混むらしく、結局届いたのは昼過ぎだったそうだが、母やすごく喜んでくれた。

注文したケーキは京都伊勢丹のスイーツコーナーにあって、そこだけ別室のようになっている。自動ドアを入ると中は冷んやり冷房がきいていて、チョコレートやケーキ、焼き菓子などがずらりと並ぶ。

行った日が母の日前だったこともあり、ショーケースの1番目立つ場所にそのケーキはあった。長方形をした赤いケーキ、多分味はラズベリー系だった気がする。少し値は張ったが、甘いものに目が無い母ならきっと喜ぶだろう、とそれに決めた。

友達親子になれなかった、母と私

今でこそ色んな話をするようになったが、私たち親子は、決して仲の良い親子ではなかった。几帳面で神経質な母に比べ、無神経で大雑把な娘。性格があまりに正反対で、母の顔すら見たくなくて、家に帰らない日もあった。

私がどれだけ遅い時間に帰宅しても、母は必ず起きて、私の帰りを待っていた。「おかえり」と声をかけるわけではない。いつも家に帰ると、母の部屋の灯だけがついていたから、私は母が起きていることを、ずっと知っていたのだ。

母との関係が良好でなかったことは、私にとっては良い面もあった。早く自立してこの家を出ようと思えたことだ。仲良し親子や友達親子なんて言うものがこの世にはあるが、もし私がそうであったら、ずっと家から出ることなく、いつまでも親に甘えていた気がする。

親を嫌いながら、私の中に強くあったのは、他ならぬ、親への依存心だった。母を嫌う一方で、母なしでは生きていけない自分の弱さを自覚していた。それは、私のコンプレックスでもあった。

そんなある時、こんな言葉を目にした。「親を嫌うのは、人間として当たり前のことである」

周りに友達親子のような仲の良い親子をたくさん見てきたから、自分は間違っているのではないか?親不孝ものの娘なんじゃないか?と、ずっと悩み続けてきた。その言葉は、私のそんな悩みを心地よく慰めてくれた。

人は、ある程度年を重ねると、親から自立するために、親を毛嫌いするよう作られているらしい。思い返せば、猫だってそうだ。親猫は子猫を出産すると、ある程度の期間は自分の母乳で子猫を育てる。しかしその後、それぞれが個として生きていくために、親猫は子猫を威嚇するようになるのだ。

なんてひどい親猫だこと!なんて最初は驚いたけれど、どうやらそれは、自然なことらしいと知ったとき、世の中は、生物は、よくできているものだなぁなんて思ったりしたものだ。

猫と人間を同じに例えるのはどうかと思われるかもしれないが、人間の場合は、子供が親に反発や反抗することこそが、親から自立する第一歩らしい。1人の人間が社会に出て、ちゃんと生きて行くためのスタート地点に立つための準備を始める、と言うことだろうか。

とはいえ、私の周りの友達親子率ったら、なかなか多いもんで。もう少し私のような人間が近くにいたらば、私もここまで悩まなくて済んだだろうになぁなんて、他人のせいにしてみたり。けれど実際大人になると、私のような人間とたくさん出会い、「長く生きるのは悪くないな!」なんて思ったりする、なんとも単純な人間なんです、私。

孤独を糧に

母とうまくいかないことは、私を少しばかり孤独にしたが、「ずっとただの孤独だけであった」わけではない。

自分が生きながらちょっとずつ変化していくのと同じように、自分の中にある欠損部分も同じように変形していく。完全に消え失せることはないにせよ、以前とは違う形で自分の中に存在する「孤独」に対し、いつしか、これも含めて自分なのだと少しだけ理解できるようになった。

孤独と聞くと、とてもネガティヴな印象が強いかもしれない。しかし、人間はみな孤独に生まれ、孤独に死ぬ。誰かと一緒にいたとしても、誰かを心の底から愛し、深く繋がったとしても、100%繋がり合うことは無理に等しい。

孤独は、ただネガティヴな要素なのではなく、当たり前にあるもの、なのかもしれない。そう思えるようになったのも、自分のコンプレックスと向き合い続けた結果なのだろうか。そう思うと、コンプレックスほど、愛着がわくものは、この世にないのではないか。

母は、私を嫌いだったわけではない。私を愛していなかったわけではない。ただ忙しく、私にわかりやすい愛情を表現する気持ちの余裕がなかっただけ。だから、無視をしたり、矛盾した怒りを子供である私にあてつけてきた、それだけだったのだ、と。

「ありがとう」という感謝の言葉は、とてもわかりやすい。そして、とてもシンプルで伝わりやすい。親が私に対し、わかりやすい愛情表現をしてこなかったように、私も同じように、親へわかりやすい感謝の表現をできずにいる。これは、完全に親の責任である、と、言っておこう。このくらいは許されるだろう。

どんな親にも、どんな子供にも、それなりに心の距離があっても良いと思う。わかりあえない親子のように見えても、血の繋がりは否定できない。どこかで必ず、繋がっているのだ。悪い部分も、良い部分も全てひっくるめて、繋がってしまっている。

歪な人間だからこそ生まれるものも、あるだろう。曲がっているからこそ、その道すがら手にするものだって確実にある。そしてその手にしたものを、どう解釈し、どう放出して行くか。そこか重要になってくる。

母にそっくりな私の性格

数年前から、猫と暮らすようになった。猫と暮らし始め、私の中にある全ての愛情は、惜しみなく猫に注がれるようになり、夫へ注ぐ分の愛情は、すまないが、ない。うまいこと配分すれば問題ないんだろうけれど、その配分がうまくいかないのだ、すまん、夫よ。

猫のちょっとした体調の変化に敏感に気づき、元気がなさそうだと感じたら、自分の事のように気になってしまう。「大病であったらどうしよう…」なんて、飼い始めたばかりの時は、どんな些細なことであっても動物病院へ連れて行ったものだ。医師からは「食欲と元気があれば、多少のことは心配しなくても大丈夫」と言われているので、今は以前に比べ、すぐうろたえなくなった。

猫が元気がないと、私も元気がなくなる。それは、母がそうであったように、子供と親がどこかでリンクするように、私と猫も、やはりどこかでリンクしているのだろう。血の繋がりどころか、人間と動物である。親と子の関係と同じにするのもどうかとは思うが、私はもしかすると、猫を異常に愛しすぎているのかもしれない。

猫と一緒にいる時間を確保するために転職し、猫の体調がイマイチだと感じたら、予定をキャンセルしてしまう。私の生活の中心は、猫である。一泊旅行をするのも、猫を置いてはいけないから、極力しない。夏は熱中症が気になるから、なるべく家にいて、猫がエアコンのない部屋で昼寝なんてしていようもんなら、エアコンのある部屋に運んでやる。

もしかするとうちの猫は、私が母に対して思っていたのと同じように、「この家から、早く出て自立したいにゃ…」なんて思ってやしないだろうかと、今ふと、心配になってしまった。

 

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