90年代後半から00年代前半に掛け、桜庭和志は総合格闘技ブームを牽引した。IQレスラーやグレイシー・ハンターと呼ばれ、プロレス・ファンの思いを実現したと言える。一体、桜庭和志とはどんなレスラーであったのか?

プロレスラーからPRIDE参戦へ

桜庭和志は秋田県に生まれ、高校時代はレスリング部に所属した。中央大学へ進学後もレスリング部に所属し、主将まで務めた。1992年に大学を中退後、UWFインターナショナルへ入団し、レスリング技術と共に打撃技を身に付けた。

翌年8月にプロデビューを果たし、若手プロレスラーとして実績を積んでいった。1995年の新日本プロレスとの対抗戦では、新日プロ所属の永田裕志や石澤常光等と好試合を演じた。

1996年にUインターが崩壊すると、後継団体であるキングダムの選手となった。Uインターでは第二次UWFの延長のように、ポイント制等の試合ルールであったがキングダムでは異なった。

オープン・フィンガー・グローブを採用し、総合格闘技に近いルールとなった。Uインターよりもさらに競技色の強いプロレス団体となり、これが桜庭に好影響を及ぼしたのかもしれない。

桜庭に注目が集まったのは、1997年に開催されたUFC Japanヘビー級トーナメントであろう。怪我をした先輩レスラーの代役で出場し、見事優勝を果たした。

1998年には師匠である高田延彦が創設した高田道場へ移籍した。総合格闘技大会であるPRIDEにも正式に参戦し、桜庭ワールドを展開していく。

総合格闘家として一時代を築く

PRIDE参戦後、ビクトー・ベウフォート、カーロス・ニュートン、エベンゼール・フォンテス・ブラガ、アンソニー・マシアス等のミドル級の実力者を次々と破り、1999年11月にホイラー・グレイシーとの対戦を迎えた。

因縁のグレイシー一族との一戦であり、当時総合格闘技と言えば、グレイシー一族が第一人者であったことは間違いない。しかも師匠の高田は、一族で一番強いとされるヒクソン・グレイシーと二度対戦し、二度とも同じ技で敗北している。

リベンジという言葉が自然と浮かんで来ても、仕方がないであろう。周囲の期待に応えるように、2Rレフリーストップ勝ちとなり、グレイシー・ハンターのスタートを切った。

2000年5月には今でも語り続けられているホイス・グレイシーとの試合があった。ルールでもめながらも、7R開始直後にホイスのセコンドがタオルを投入したことで、TKO勝利となった。

これを機にPRIDEでは桜庭時代が到来したと言え、彼の絶頂期でもあった。全国的に名を馳せることになり、日本の総合格闘家の第一人者となったことは間違いない。

同年8月にはヘンゾ・グレイシーと対戦し、TKO勝利を収めた。12月にはハイアン・グレイシーと戦い、判定勝ちとなった。グレイシー一族を名乗る四人の格闘家を破ったことから、グレイシー・ハンターと呼ばれるようになった。

しかし桜庭の転機は、翌年早々に訪れる。桜庭と同じくPRIDEミドル級で頭角を表していたヴァンダレイ・シウバと3月に試合が組まれ、いつもの桜庭ワールドを展開できずTKO負けとなった。

以降、復帰戦等を飾るも、かつての勢いが衰えたと言えるだろう。1つの時代が終わりを告げたともいえ、2006年にPRIDEのライバル・イベントとであるHERO’Sに参戦した。

その後、DynamiteやDREAM等の大会に出場し、同じUWF系の船木誠勝とも総合格闘技の大会で対戦した。プロレスのリングにも上がるようになり、現在では、QUINTETという寝技のみの大会のプロデューサー兼選手として、活動している。

三戦をピックアップ

桜庭和志の試合を独自の視点から3つ選んでみた。

まず始めに桜庭と言えば忘れてはいけない試合があろう。2000年5月に行われたPRIDE GRANDPRIX 2000の準々決勝の一戦である、対ホイス・グレイシーだ。

ホイス・グレイシ―と言えば、第1回と第2回そして第4回のUFC大会で優勝し、グレイシー一族の名を世界に知らしめた柔術家である。

PRIDE GRANDPRIX 2000の準々決勝とはいえ、グレイシー側がルール変更を求めた。桜庭側もそれに対抗して直前までルールで揉めたようであるが、最終的には1R15分の無制限ラウンド等のルールで合意となり、レフェリーストップと判定のない試合になった。

結果は7R開始早々にホイス陣営からタオルが投入され、桜庭が勝利した。リング・アナウンサーのコールが起こると、会場には割れんばかりの歓声が沸き上がった。

試合は桜庭がのらりくらりとホイスの攻めをしのぎながら、的確なキックを駆使していった。タオル投入の理由が足の自由が効かなくなったことのようで、桜庭の鋭いキックがホイスを徐々に痛めつけていた証でもあろう。

次に対ヴァンダレイ・シウバ戦を取り上げる。シウバとは合計3度の対戦があるが、いずれも敗北している。桜庭がグレイシー・ハンターなら、シウバはサクラバ・ハンターになるかもしれない。

とりわけ、2001年3月に行われた最初の対戦である。PRIDE13の一戦でもあり、メインの試合でもあった。

ゴングが鳴ると両者が睨み合っていたが、タイミングを計ってシウバが前に出た。彼の特徴であろう超攻撃的なスタイルで、桜庭の顔面にパンチを決めて行った。

桜庭の悪い癖として、ムキになって相手に合わせてしまうところがある。この日は悪いところが前面に出てしまった。シウバの打撃に応じてしまい、のらりくらりと交わすことをしなかった。

桜庭がうつ伏せになるとシウバのサッカーボールキックが決まった。レフェリーが試合を止め、桜庭のTKO負けとなった。

振り返れば、この試合が桜庭の転換点になったようだ。同年7月に復帰戦を飾ったが、翌年のシウバとのリベンジ・マッチではドクターストップ負け、2年後の2003年8月の三度目の決戦ではKO負けとなり、シウバには一度も勝っていない。

後年Hero’s等へ移籍することになるが、PRIDEのリングでは、芳しい成績を挙げられなくなった。30代を過ぎてから徐々に体力的に落ちていったとも考えられるが、ホイスとの無制限ラウンドの激闘が、もしかすると多大な影響を及ぼしていたのかもしれない。

三試合目は移籍後のものである。2007年12月にDynamiteのリングで行われた船木誠勝戦である。PRIDEが消滅した後の大きな総合格闘技大会であり、大晦日の開催でもあった。

桜庭も船木もUWF関連の選手であり、しかも同年代である。初対戦で、なおかつ船木誠勝のカムバック初戦でもあり、大いに注目された試合であった。

ゴングが鳴ると両者が互いに距離を取りながら、打撃戦が続いた。どちらかと言えば、桜庭に有利な流れであったが、船木は体が動かないようで、あと一歩が出ない感じであった。

拮抗したような感じであったが、桜庭がテイクダウンを取り、グラウンドでも有利な展開となった。結局チキンウィングアームロックで桜庭が勝利した。

一時代を築いたUWF関連同士の戦いであり、UWFを知る人々にとっては感慨深い試合であったかもしれない。

「プロレスラーは本当は強いんです」

桜庭和志がプロレスラー兼総合格闘家として注目を集めるようになったきっかけは、1997年に開催されたUFC Japanヘビー級トーナメントであろう。

代役として出場したにも関わらず、見事優勝を果たし、試合後のインタビューで有名な言葉を発した。

「プロレスラーは本当は強いんです」

1997年と言えば、10月に師匠である高田延彦がヒクソン・グレイシーと対戦し、KO負けを喫していた。プロレスが死んだ日とも称され、プロレスラーは最強でなかったということが語られた。

プロレスも徐々に下火となり、総合格闘技の勢いが増して行った頃である。桜庭が総合格闘家として成功できたのはレスリングの下地があったから、と指摘する人もいる。しかし彼がプロレスラーであることに間違いはないであろう。

元々プロレス・ファンにはコアな人が多く、たとえプロレスはショーであっても、いざという時には強い、という思いもある。

桜庭の優勝はその後の総合格闘技ブームのきっかけを与えたものともいえ、強いプロレスラーの「真剣勝負」を見たいというプロレス・ファンが支えた部分もあったかもしれない。

いずれにせよ、桜庭は90年代後半から2000年代始めに掛けての総合格闘技ブームを支え、日本の総合格闘技を引っ張った。

師匠の高田延彦や佐山聡のように、日本の総合格闘技の下地を作った役割も重要だが、そういう下地の上で、実際に活躍したことは大きく評価されるべきであろう。

プロレスラー兼総合格闘家として現役を続けているが、総合格闘技からはほぼ退いていたと言えるだろう。

現在は寝技のみの大会であるQUINTETのプロデューサー兼選手としての活動を主とし、格闘技の奥深さや面白さを表現し続けている。

 

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