幸せになりたい

婚活中の友人との食事会。そこでは、女性ならではの想いが赤裸々に語られます。男性が聞いたら夢も何もなくなるような話から、まるで少女のような物語まで。ああだ、こうだと話をし、「幸せになりたいよね。」という言葉で締めくくられます。
女性のこういう話は特に結論を求めているわけでなく、話をすることでストレス発散、すっきりしてまた明日から頑張れてしまったりします。
この話の締めの「幸せになりたい。」という言葉。これは誰もが思っていることなのですが、具体的にはどのようなことを指しているのでしょうか。幸せの尺度は自分の中にあり、他人がそれを図ることはできません。幸せとはいったい何なのか。どうすれば、心から幸せだと思える状態になるのか。
女子会の帰り道にそんなことを考え、ふとMさんのことを思い出していました。

幸せの渦中に

私が20代の頃、仕事で何かと目をかけてくださった方がありました。父親くらいの年齢の方で口うるさくもあり、ときどき煩わしく感じながら、駆け出しの私に仕事をくださることに感謝していました。
その方、Mさんは非常に優しいのに、どこか冷たく、ちょうど良い距離を見極めるのが難しい方でした。全てを受け入れながら、受け入れていない。そんな掴みどころのない人。

Mさんは、若いころに一度目の結婚をして私くらいの年齢の娘がいるそうです。その後、30代で二回目の結婚をし二人の子供を授かったそう。再婚した女性はキャリアウーマンで、Mさんが主に子供の世話をしたといい、子供たちはMさんによくなついているのだとか。
Mさんが二人の子供の話をするときは本当に幸せそうで、その子たちとの暮らしがすぐそこにあるように感じられました。

しかし、実際には二回目の結婚も数年前に破綻し、子供たちとは離れて暮らしていたのです。
離婚の理由はMさんの不倫。ある女性と恋をし、その恋に溺れた。秘密裏に始まった恋が深みを増すにつれ自分たちの置かれた状況に鈍感になっていく。やがては女性の自宅に出入りする日が増え、公の場でも堂々と一緒にいるようになったといいます。
聡明で心の広い妻もやがて愛想をつかし、二人の子供を連れて出ていきました。

絵に描いたような離婚劇のあと、彼は浴びるほどにお酒を飲み、一時は仕事にも出なくなったそうです。そんな生活が2~3年ほど続いてMさんは大病をし、1年の闘病の後ようやく復帰をした。私が彼と出会ったのはそんな時でした。

仕事の合間に交わす雑談には、よく子供たちが登場しました。家族で暮らしていたころに出かけた旅行の話や、Mさんの作る食事を喜んで食べる様子は、まるで今も継続中の出来事のようで、背景を知っていても錯覚に陥ることがありました。
Mさんにとって人生で一番幸せだった日の記憶。
それを聞きながら、私はずっと不思議に感じていました。なぜ、そんなに幸せだったのに家族を裏切ったのか。そして、全てを失って時間を経ても、その後悔から立ち直ることができないのかと。

幸せの意味

人が幸せを感じるのは、単純には自分の欲求が満たされた時でしょう。美味しいものを食べた時、欲しかったものを手に入れた時など。
人間の欲求は、本能的なものから社会的なものに至るまでいくつも存在しています。
社会的な欲求とは、社会的に認められたいという承認欲求などですがこれは根底に本能的な欲求も含んでいる人間ならではの高度な欲求です。
この社会的欲求と本能的欲求のバランスを取りながら私たちは生きています。

件の婚活中の女友達が求める幸せはこの「複雑な欲求」に入りそうです。周りの人から羨ましがられるハイスペック男性に愛され、郊外の素敵な住宅に暮らし、賢くかわいい子供たちを育てていく。この一連の幸せは、「社会」という枠の中にいてこその欲求と、生物としての本能が入り混じっています。
そのような社会的要素を含んだ欲求を持ちながら、並行してより本能的な欲求も人間は持っています。
例えば、人から反対される男性をどうしても好きで抗えない。ダイエット中にアイスクリームをどうしても食べたい、など。

もし、社会的欲求が強い人であれば、アイスクリームを食べることよりも自分の体形を守ることの方により幸せを感じるので、食べたいとは思っても口に運ぶことはありません。
どうしても、年収の高い男性と結婚したいのであれば、どんなに魅力的であっても稼げない男性には目もくれないでしょう。
社会的欲求と本能的欲求を同時に手に入れることは難しいことが多く、そのどちらかを選択するしかありません。人間は動物である以上、本能には抗えないはずです。従って、社会的要素を含んだ欲求を満たして幸せになる、ということは理性を持ち、ある種の覚悟を伴うものと言えます。

Mさんは、社会的欲求を持ちそれを手に入れながら、本能的欲求に負けその全てを手離すことになりました。
目の前に美味しそうなものが現れた時に、それと引き換えに失うかもしれない何かを忘れ誘惑に負けてしまうMさんのような人を「破滅的な性格」と呼ぶことがあります。
彼はどうしても自分を抑えることができない性分を痛感していたのではないかと思います。そして、どちらか一方に覚悟を決めることができない自分が何かを愛したり、望んだりするならば、誰かが傷つくということも感じているのでしょう。だから、もう新しい愛を探そうともしないし、誰かの愛を受け入れようともしない。
社会的欲求を満たし幸せになる権利があるのは、本能よりそちらを優先するという覚悟がある人だけ。それができそうにないなら、そもそも求める権利がない。Mさんはそう悟り無欲になろうと努力していたのではないかと今になって思えます。

二兎を追う者は

現代は、社会的欲求と本能的欲求の間に明確な線を引くのが難しい社会です。ひと昔前であれば、人生のロールモデルがはっきりしており、女性は学校を卒業し何年かしたら結婚し家庭に入るのがセオリーでした。男性は、働いて妻子を養う。
今の社会では、男女とも働くこと、結婚すること、子供を持つこと、その他すべてにおいて「多様化」し、それぞれの生き方を容認する方向になりつつあります。
これは個々の考え方や、持って生まれた性質を尊重する良い環境に向かっていると言えます。
しかし、多様化とは選択する機会が増えるということでもあり、「こうしておけば幸せ」という見本がなくなってしまったということでもあります。
仕事を選ぶ、パートナーを選ぶ、それぞれの分岐点において自分なりの価値基準をしっかり持って人生をカスタマイズしていかなければ、途中で「幸せ」を見失ってしまうこともあり得るということです。

社会的欲求を満たすことを幸せとする、と決めたならそれを全うしていく必要があり、途中降板してしまうと一緒に生きようとした人まで不幸にしてしまうという結果になります。
生き方が多様化したことで、責任はより大きく複雑になりました。
パートナーを選ぶ際などにはその相手が自分の求める幸せと同じ価値観を持っていて、かつ覚悟できる人なのかということまで見定める必要があるということになります。

本能的欲求を満たすことで寂しさを埋めようとしたMさんを、私は愚かだと笑うことはできません。
そして、ハイスペックかつ「好き」な人と結婚したいという女友達の本音もよく理解ができます。

「二兎を追う者は一兎をも得ず」。ブッフェスタイルの人生で、より良い人生を生きるために、人は自分の求める幸せを選び、覚悟しなければならないということです。
一見、昔より自由が増えた現代は、幸せになるために明確な意思で本能をコントロールすることが求められる、実は「不自由な時代」なのかもしれません。