昭和から平成へ切り替わる頃、UWFブームが全国的に巻き上がり、前田日明が常に注目を浴びていた。格闘王と呼ばれ、アントニオ猪木に代わる最強のプロレスラーとして、多くの人々に支持されていた。一体、前田日明とはどんなレスラーであったのか?独自の視点から語ってみよう。

軌跡を辿る

前田日明は少年時代より空手や少林寺拳法を習い、1977年に佐山聡にスカウトされ、新日本プロレスへ入団した。身長約190センチの大柄であり、恵まれた体型から将来のエース候補として期待されていた。

しかしいわゆる新日本プロレス・クーデター事件の影響で、新日本プロレスから第一次UWFへ移籍した。新日本プロレスの元専務である新間寿が中心になって旗揚げされた第一次UWFでは、エース格として試合をこなしていった。

後に藤原喜明や高田延彦あるいは佐山聡等が参戦し、次第にシビアな戦いを行うようになるが、1985年に第一次UWFが活動停止となった。戦いの場を求め、新日本プロレスと業務提携し、古巣へ戻る形となった。

前田はUWF陣営のエース候補として、新日本プロレスのリングでもシビアな戦いを表現した。当時の新日本プロレスはゴールデンタイムでテレビ放映され、UWFの戦いがお茶の前に映像で流れると、瞬く間に支持者を集めることになった。

だが1987年に行われた六人タッグマッチで、サソリ固めを掛けていた長州力へ対し、背後から顔面キックを放ち、怪我を負わせてしまった。これによって新日本プロレスから無期限出場停止処分を受けることになった。

活動の場所を独自のリングに求め、1988年に第二次UWFを興すことになった。高田延彦や山崎一夫、後年には藤原喜明や船木誠勝等も参戦し、全国的なUWFブームの波に乗った。UWFスタイルは健在であり、UWF最強伝説なども語られ、そこでは前田が中心であったことは間違いないであろう。しかし1990年にフロントと選手の対立が生じ、第二次UWFが解散となり、前田はたった一人でリングスを立ち上げた。世界中の格闘家を集め、競技のような形で試合を進め、衛星放送でも流された。前田人気が健在であったことの証であったかもしれない。

1999年、前田は現役を退き、その後リングスは活動停止となった。プロレスや総合格闘技の興行等にスーパーバイザーとして関わり、現在ではTHE OUTSIDERというアマチュア格闘技大会の主催者として活躍している。

ファイト・スタイルを見てみよう

少年時代から空手や少林寺拳法を習っていたためか、前田のファイト・スタイルは、蹴りを主体としている。間合いを図りながら重たい蹴りを放ち、時折相手が苦痛の表情をしながら崩れ落ちる時もあり、観客が大いに沸いたこともあった。

主にプロレスのリングで披露していたのが、フライング・ニールキックである。相手をロープに振って、回転しながら飛び上がり、相手に踵あるいはふくらはぎを当てていく。目測を誤る時もあるようで、藤波辰爾との試合では、藤波の目尻に踵が当たり、大出血をさせたこともある。

また関節や絞め技も駆使する。第二次UWFの旗揚げ戦では、片羽絞めでギブアップを奪い、ジェラルド・ゴルドー戦においては裏アキレス腱固めを決めるが、これは当時としては珍しい技であり、ゴルドーばかりでなく観客も驚いた感じであった。

もちろんプロレスラーでもあるので、長身を活かした投げ技も使う。彼の入場曲である「キャプチュード」は、得意の投げ技名がタイトルに使われた。相手の片足首を抱え、そのまま背後に投げつける。体固めにも移行できる複合技とも言えるのかもしれない。

こうして見ると、前田は、蹴りを主体としながらも、関節や投げ技も駆使する総合格闘家タイプのファイト・スタイルであったと言えるだろう。

代表的な試合を取り上げる

前田日明にもいくつかの代表的な試合がある。その中から独自の視点で三試合を取り上げる。

まず一試合目が1985年9月に大阪府立臨海センターで行われたスーパータイガー戦であろう。第一次UWF時代の最後の試合でもあり、スーパータイガーとは佐山聡のことである。

結果から言えば、前田の反則負けであったが、曰く付きの試合でもある。佐山が独善的に格闘技志向の興行を目指しているという話が選手の間に広まり、前田がそれならばとセメントを仕掛けたと言われる。

セメントとは、言ってしまえば「ルール無視」のプロレスであり、喧嘩を仕掛けた試合とも言えるだろう。ゴングが鳴ると、前田が前へ前へとプレッシャーを掛け、佐山にほとんど技という技を掛けさせなかった。激しい平手打ちを放ち、「仕掛け」と受け取れるシーンもあった。

試合開始から19分が経過しようとした時、前田が膝蹴りを放ち、佐山が股間へ当たったことをレフリーにアピールした。瞬く間にゴングが鳴らされ、前田の反則負けとなった。リングを下りた前田は、リングの表面を思い切り両手で叩いて、控室へ消えた。以後、前田と佐山は因縁の相手と称されるようになった。

二試合目は、ドン・中矢・ニールセンとの戦いである。新日本プロレスとの業務提携時代に行われ、「格闘王」の称号を得ることになった名勝負の一つである。ドン・中矢・ニールセンはアメリカのキックボクサーで、異種格闘技戦として行われた。

ゴングが鳴ると、両者が探り合いをし、終盤にニールセンの左ストレートが前田の顔面を捉えた。お見事とも言えるパンチであり、以後、前田は記憶をなくしたようで、試合経過をしっかり覚えていないらしい。けれどもラウンドが進むにつれ、前田がニールセンを倒す場面が増えて行った。

5Rに入り、終了の約30秒前に、前田がニールセンの蹴りをキャッチすると、そのままニールセンを倒し、逆片エビ固めを決め、ギブアップ勝ちを奪った。リング中央で両手を上げる前田の姿が印象的な試合でもあった。

最後にアンドレ・ザ・ジャイアント戦である。1986年4月に津市体育館で行われ、佐山戦と同様、曰く付きの試合でもある。セメントマッチとも言われ、アンドレが「仕掛けた」との話があり、前田が身の危険を感じたようだ。

ゴングが鳴ると、通常のプロレスのようであったが、前田が足を取りアンドレを倒したが、アンドレの大きな手の平が前田の顔面を覆い、目潰しのような攻撃をした。前田がロープブレイクをし、両者が再び睨み合ったが、いつもとは違う蹴りを前田が放った。

空手等では禁止されている「皿割り」である。膝頭付近にパチ~ンと響き渡るような鋭い蹴りが放たれ、会場の雰囲気が一遍に変わった。以後、両者が終始睨み合いを続け、アントニオ猪木が仲裁に入るような形でリングへ入り、結局26分35秒にゴングが打ち鳴らされ、無効試合となった。

試合のほとんどが睨み合いであったため、テレビで放映されず、長い間DVD等で発売されることもなかった。しかし伝説のセメントマッチとして、プロレスファンの間でも語り継がれている試合でもある。

前田日明が果たした役割とは?

前田日明が果たした役割は、UWFと機を一にしているだろう。すなわち総合格闘技の形をプロレスのリング上で表現し、関節技等の地味なものを広く大衆に知らしめたことだ。UWF解散後、PRIDEが登場し人気を博すが、これはなによりUWFの下地があったからこそだろう。

また前田日明というと、ケンカマッチのイメージもある。伝説的なセメントマッチがいくつかあり、上記で取り上げたスーパータイガーやアンドレ・ザ・ジャイアント戦が代表的であろう。アントニオ猪木も戦いの怖さを表現したが、前田もまた同様であったかもしれない。

「燃える闘魂」を最も受け継いでいるのは自分とも、前田はインタビューで述べている。もしかすると、前田こそ猪木の言葉をそのまま信じ込み、実践して来たのかもしれない。

「いつ何時誰の挑戦でも受ける」

彼がセメントマッチを仕掛けたり受け入れたりしたのも、この言葉が身に付いていたからであろう。

 

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