戦国時代に活躍した有名人

戦国時代に関心がある方も無い方も、名前ぐらいは聞いたことのある、一昔前この日本に実在した有名な武将たちがいます。例えば、戦国時代のビッグ3と言いますと、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康になるでしょうし、これは皆様も存じておられるはずです。

その他にも、色んな形で有名な大名及び武将たちがいます。漫画などから有名になった、天下の傾奇者の前田慶次、風林火山で有名な武田信玄、毘沙門天の化身と云われた上杉謙信、独眼竜の伊達政宗、加賀百万石の前田利家など多々いらっしゃいます。

戦国時代に活躍した無名人

戦国時代において、1万石以上の所領を持つ武将のことを大名とも呼びます。1万石とは2500坪の領地を構え、大体120名~130名の武将を抱えていることになります。ですが、大名ではなくても、大名以上の働きをした当時は有名な武将たちが多々います。

その武将たちは、実際の合戦で大奮闘しながらも、歴史からは埋もれてしまっていたり、現代では無名に近い人物という、無念な状態になっていることも確かです。
この記事では、戦国時代に大活躍したものの無名な武将たちをご紹介したいと思います。

九戸政実

まず名前からしても覚えにくい武将ですので損をしている感じもします。この武将の名は「九戸政実(くのへまさざね)」と言います。主家は南部家で同時に本家でもあります。南部家は源光行を祖とし、現在の青森県と岩手県の北域を支配していました。

南部家は三戸南部家を宗家として、九戸南部家は分家でした。三戸南部家24代当主である南部晴政は、次女を九戸政実の弟(九戸実親)に嫁がせて、一族の強化を図りました。ですが本家の南部晴政が没した後、南部家で本家の後継者争いが勃発しました。

そこで、南部家の重臣である北信愛が後押しする南部信直と、九戸実親を後押しする一派との本格的な争いに発展しました。そして、南部の三戸と九戸との対立が激化し、三戸側は前田利家を通じて豊臣家に近づきます。そして奥州仕置きに繋がります。

結果的に領主の配置変えや検地にて、九戸側は有力な一族ではあっても三戸側の家臣でしかないと位置づけされたことに我慢ならず、九戸実親の兄である九戸政実が面子をかけて、5千人の兵力で挙兵しました。その相手となる討伐軍は12倍の6万人です。

豊臣秀吉の命令で九戸討伐に向かった討伐軍は、豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷・浅野長政・石田三成などの軍勢が主戦力です。しかし元々、南部家一の精鋭部隊である九戸政実勢は互角以上の戦いを続けました。これが世にいう九戸政実の乱です。

戦いも長引けば多勢に無勢となり、根尽きかけた時に「妻子と城兵は助命する」という豊臣側の言葉を受け、諦めて出家姿で開城しましたが、根こそぎ斬首されたそうです。誇りをかけて天下と戦った勇敢な武将・九戸政実は大名でもなかったそうです。

佐伯惟定

江戸時代の前期にかけて活躍した、豊後国海部郡栂牟礼城主で後に津藩の重臣となる武将です。豊後佐伯氏第14代当主でもあります。この武将の最高石高は4500石と云われていますが、九州地方で最強と名高い島津軍を撃破するなど大活躍しました。

その島津家久の軍を撃破した堅田合戦の後に、佐伯家臣の高畑氏が星河城を攻め落としました。さらに戸高将監率いる島津軍の輜重隊を、因尾谷で襲撃し全滅させました。また、大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉が九州平定戦を開始した時も活躍します。

その一つに、戦中から撤退しようとする島津義弘・家久兄弟の軍を日豊国境の峠で撃破したものがあります。それから、日向路の大将・豊臣秀長が豊後に到着したのち合流し、先導役を務め日向に入り高城攻めにも参戦しました。

九州平定後、天下人に呼ばれます。
豊臣秀吉から奮闘を激賞されて感状を与えられました。その後、大友氏は改易となり佐伯氏も居城を失いますが、豊臣秀長の後継者・豊臣秀保に支えられました。豊臣秀保が没した後、その家臣である藤堂高虎に客将として招かれ五百人扶持を与えられます。

藤堂高虎の宇和島入封に従い伊予に移住し、新知2000石を与えられました。関ヶ原の戦い以降、藤堂高虎の普請に従事し現在の三重県津市に城下を開きました。大阪夏の陣の後、4500石に加増された数年後に50年の生涯を閉じた、無名な最強の武将です。

平野長泰

この武将の先祖は鎌倉幕府の北条時政で、その14代の横井宗長が姉婿である平野業忠の尾張・平野村を継承して、平野姓に改正したと考えられます。さて、平野長泰という武将ですが、織田信長→羽柴秀吉と仕え、その際に賤ケ岳の戦いに参戦しました。

相手は柴田勝家軍ですが、平野長泰は弟の長重と従兄弟の石河兵助らと攻め入って、柴田軍の奏奉行である松井友十郎と小原新七を、平野長泰が討ち取りました。この合戦の実績で、あの有名な「賤ケ岳の七本槍」の一人となり将来を有望視されました。

賤ケ岳の七本槍の他の六人は、福島正則・脇坂安治・糟屋武則・加藤清正・加藤嘉明・片桐且元と名の知れた、後に戦国大名となる面々です。平野長泰も槍ヶ岳の戦いの武功で3000石となり、後に小牧長久手の戦いでも武功を挙げて5000石となりました。

しかも、1598年には従五位下遠江守に叙任された上、豊臣姓を下賜されました。平野長泰の正室は、2万4千石である土方雄久の娘ではありますが、平野長泰自身は数々の武功を挙げたのにも関わらず、結局5000石止まりで大名になれなかった武将でした。

半田半兵衛

もし生きていれば徳川政権や、関ヶ原の合戦は存在していなかったとされる、戦国時代の大大名こそ前田利家です。その前田利家の家臣団にも、重臣の奥村永福や荒子七人衆を始めとする、加賀八家、そして譜代の家臣たちが十数名存在しておりました。

その譜代家臣の中の一人に、半田半兵衛という武将がいました。1584年に起きた前田家の存続が危ぶまれる末森合戦で、鉄砲傷を負いながらも奮闘し武功を挙げて賞賛されました。その後、数々の武功によって約8000石を領しました。

もう一働きして武功を挙げれば、万石取りの大名になるのも夢ではありませんでした。しかし、秀吉公の関東征伐の際に利家軍の母衣衆として出陣しましたが、八王子で、加賀百万石の前田家を救った無名の武将・半田半兵衛は夢叶わず討死にしたのです。

現代も人気の高い武将たち

戦国時代に大名となる武将の殆どが、生まれた家そのものが既に大名だったり、譜代の家臣だったりする場合です。つまり、士農工商という身分制度から言いますと、農民や商人から武士になり武功を立てて、大名にまでなるケースは滅多にありません。

良くも悪くも色々な噂が囁かれながらも、豊臣秀吉は農民出身という立場から、天下人にまでなった武将なので現代でも高い人気を誇ります。また、本文内に登場した人物より石高が少なくても、超有名で人気がある真田幸村のような武将も居るのです。

または、冒頭でも記しました通り前田慶次なんかも、漫画等で名を轟かせた感じですが、実際は彼自身の禄高は最終的に五百石あるか無いか程度なのです。ですので、決して後世にまで人気を博し名を残す武将は、大名や石高等では無いということです。

まとめ

今回は、戦国時代に活躍しながらも現代は無名に近い、武将たちをご紹介させてもらいました。大名だから石高が多いから有名で人気があると言う訳ではありませんが、活躍した無名の武将を少しでも知っていただければ幸いです。

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