暑さの代償

昨夏は猛暑と連日叫ばれ、その暑さは記録的なものでした。暑さのせいで体力を奪われ、気力を失くすほど。しかし最もつらかったのは、大切にしていた文鳥を失ったことでした。
動物を飼うということはその死に目まで引き受けるということで、いずれはその日がくることを誰もがわかっています。
近年「ペットロス」という言葉もでき、かわいがっていた家族同然の動物を失う悲しさは、飼ったその日から避けて通れぬことは理解していたつもりでした。
理解しているのと実際に体験するのとはまた別のことで、真夏の日に小さな命の大きな重みを知ることとなりました。

9年の日々

文鳥を飼い始めたのはいつだったでしょうか。離れて暮らす妹が生まれて間もないヒナを飼い始め、その妹が近くに引っ越してきたことから、文鳥を預かることが多くなりました。その後、彼女の結婚、出産などがあり預かった文鳥がそのまま我が家の子になった。そんな経緯です。
さすがに気になるのか、文鳥の「養育費」としてご飯やケージは妹から差し入れられ、キッチンの隅でピーピーと美しい声で鳴く文鳥はいつしか我が家の光景の一部に収まっていきました。

我が家の文鳥は真っ白で、くちばしの赤さと目の黒さが際立ち我が子ながらかなりのオトコマエです。真っ白な体をぴんと伸ばし、鋭く見据えながらさえずる姿はどこか高貴ささえ感じてしまいます。
文鳥は、掃除機や、水の流れる音に敏感で、それを聞くと甲高い声で対抗します。
10センチ程度の体の彼は気が強く、ケージに指を入れようものなら激しく攻撃しこちらの指から血が流れるほどにつつきます。
「小さいくせに乱暴よね。」
我が家ではこの小さな暴君を恐れながら、愛しんでいました。

日に一度、お散歩と称し部屋の中で放してやり自由に飛行させていました。真っ白な翼をひろげテレビからテーブル、テーブルから冷蔵庫の上と自由に飛び回ります。ときどき私の頭にとまり排せつ物の「落とし物」をしていくので、自由飛行の後はしっかり確認しないと付けたまま外出してしまうこともありました。インターネットなどで調べると、人間の頭に乗るのはその人を自分より下にみているからとあります。「飼い主失格ね。」と笑われることもありましたが、それもまた愛嬌と楽しんでいました。

元気ないね

部屋のあちこちを旋回し、我がケージに近づくものには徹底抗戦、そんな果敢な姿をみていると、いつまでも彼がそこにいてくれるように思えてしまいます。
文鳥の誕生日(らしき日)は10月で、その日が近づくと、ふと現実を突きつけられます。あと何年一緒にいられるのだろうか。おめでたいはずの誕生日が、動物の場合なぜか切なくなる日でもあります。
知り合いに文鳥を飼ったことがあるという人がいれば、何年くらい長生きしたのか、元気でいるための秘訣はなにか。ついそのことを確認してしまいます。とても長生きした文鳥の話を聞くと、きっとうちの文鳥もそのクチで長生きしてくれるに違いない。そう思っていました。

文鳥の寿命をインターネットで調べると約7~8年が平均であると出てきました。人間の10分の1、すなわち人間の10倍のスピードで生きているということです。切ない事実を目に、彼と過ごす私の1日は彼にとっては10日分。10倍かわいがってやらねばとそんなことを考えていました。

9年と3か月を過ぎるころから、目に見えて動きが鈍くなり始めました。止まり木を踏み外したり、しっかりと留っていられなかったり。
「文ちゃんもお年よねえ。」
そう話しかけながらも、まだ希望を持っていました。
しかしそのあとは、一か月ごとに体力は弱り夏を迎えるころにはかなりしんどそうな様子になっていました。
毎年であれば風通しのよい場所で日中をすごし、暑い時間だけエアコンの室内にいるという生活でしたが、今年はどうもそれが厳しいようです。私が外出する際もエアコンをつけ、そしていつも通り迎えてくれることを願いながら大急ぎで帰宅するという日々が続きました。

その日は特に暑く、ラジオ番組の生放送を終えた私は汗だくで帰宅しました。
「ピー」
力なくもいつも通り出迎え、ばたばたと羽を振ってくれました。
夕食を終え、今夜はまた暑いのか、暑いのであればエアコンをつけてやらねばならないか、そんなことを思案していると、文鳥の様子が変だと家族に呼ばれました。
見るとうずくまり、膨れ上がった羽に頭を沈め動かなくなっていました。ケージから出し手に包むと見上げるようにこちらに頭を上げます。
お尻が硬くなっているのが気になり見ると、排せつ物が固まり体にこびりついていました。綿棒とアーモンドオイルで、ゆっくりと剥がします。なかなか外れず、文鳥は静かに目を閉じてゆっくりと呼吸をしていました。
「とれた!」
ぽろりと塊がとれ、その瞬間、押し出されるように排せつ物が流れ、2~3回喘ぐような息をすると動かなくなりました。
「死んだ。」
家族がつぶやき、それでも交代で体をさすりそうして数分が流れようやく事実を受け止めました。
生き物が事切れる瞬間を見たのはそれが初めてで、私はたぶんその時の光景を一生忘れないと思います。

新しいタオルに包み、箱に入れケージの上に寝かせました。妹に連絡すると自分で埋葬するので置いておいて欲しいとのことです。
翌朝、そっとタオルを開いてみましたが、やっぱり寝たままで、文鳥は目を覚ますことはありませんでした。

ペットの一生

一緒に暮らした動物を失うことがこんなにも悲しいのはなぜでしょうか。
一つは、動物の人生は飼い主次第でどうにもなると思うせいなのかもしれません。人間の小さな子供がそうであるように、責任者である親次第でその子の生活はどうにでもなります。保護責任者によって生活が左右される時期というのは、「幸せ」はその責任者の考えによって作られます。
こうするほうが良いだろう。このほうが幸せだろう。
中には最低限の幸せさえ与えない保護責任者もいますが、それはさておき、大抵の通常の責任者であってもそれぞれのレベルは異なります。
それの受け手である側は一個の独立した個体でありながら、自由意志では生きられません。それが人間であれば、ある一定の年齢に達すれば自身の考えで生きることもでき、保護責任者だったものから離れていくことも自分の意志次第です。
動物の場合、その一生を通して保護責任者次第でその人生が決まるのだと、そう思うからつらいのです。

私のやり方で間違っていなかったのだろうか。この子は本当に幸せだったのだろうか。そう思うと、もっとしてやれたこと。そうすべきだったことが胸に去来し答えのないまま眠れぬ夜を過ごします。
そんなことを思いめぐらせていると、動物嫌いの叔母がぽつりと言いました。
「人間だって同じよ。」
生きているうち、関わっているうちにもっと出来たこと、やるべきだったこと。それを想うとつらいのは人間同士だって同じだと言うのです。
人間については、相手が「してくれる」若しくは「してくれない」ことについて、求めすぎることや、非難することは相手の負担になると思い遣る気持ちがあります。だから結局、口には出せず心にそっと仕舞っておくのです。
時間を経て、実はあの時、相手は納得したのではなく、思いやり故に求めなかったのだとわかるときやはり、それはどうしようもないほど切ないことだと言います。確かに、相手の本心が探れないという意味では、結局、相手が動物であれ人間であれ同じなのかもしれません。

「でもね、やっぱり八月に旅行に行って、文鳥を人に預けなければよかったって思うの。」
そうつぶやく私に
「文ちゃんは、寿命だった。そうやって思ってもらえるほど愛されて幸せな子だったと思う。ありがとう。」
妹が言うように、計り知れない相手の心を想って悔やんでもらえる動物、人間は、幸せなのかもしれないと、静かに考えるのです。
10センチの小さな命は、生き物すべての命について、そして生きることとその幸せについて深い思いを置いて飛び去っていきました。

 

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