師匠って

人生の中では「この人」に出会ったから今の私がいる。と思える人が一人や二人いるのではないでしょうか。
私にとっての「この人」はA先生です。
A先生は作詞家で、私をプロの歌手にしてくれました。ともに過ごした5年の日々は、亡くなって10年が経った今も私の中で緩やかに渦巻いています。
毎年A先生の誕生日が近づくと、先生と過ごした日々を思い出します。不思議なのですが亡くなった正確な日は記憶にないのに、誕生日だけはきっちりと覚えています。
自身の誕生日にコンサートを開きご満悦だった先生。遠くの弟子たちもプレゼントを贈ってくれるとうれしそうに話す先生。
人間の記憶は幸せだったことのほうが残っていくのだと、改めて思います。

出会い

普通の大学を卒業した私はサラリーマンをしながら地元の音楽スクールに通い、自分の人生の中で音楽がどんな位置づけにあるのかを模索していました。
あるとき、スクール近くのナイトクラブに、ある有名歌手が歌いに来ると聞き一人でその店に出かけました。
初めてのナイトクラブはなんとも晴れがましい空間で、隅の席に座ったわたしは、注文した一杯のコーヒーを前に、むさぼるように歌を聞きその空気におぼれました。
ステージが終了し帰ろうとしていると、ある男性が話しかけてきました。
「歌の勉強をしてるんだろう?」
びっくりしてうまい言葉がでませんでした。
「明日、東京からすごい歌手がくるから聞きにおいで。二日続けて通うのは大変だろうから、これを持ってきたら、無料になるから。」
そう言って一枚の紙を渡されました。ナイトクラブのオーナーと記載された名刺の裏にサインと日付が書かれていました。
そして翌日、厚かましくも名刺を握りしめた私はナイトクラブを再訪し、そのステージで心臓まで届くような温かく深い歌を聞き、体のそこからしびれるような感覚を味わいました。
「すごいだろう。いつかあなたもうちのステージにデビューしてよ。」
いつの間にか横に立っていたクラブのオーナーが前を向いたまま言いました。

自宅に帰るとすぐにステージに立っていた歌手に向けて手紙を書き送りました。
その一週間後に返事がきました。
「一度、東京のわたしのところに遊びにきなさい。」
これが私と師匠との出会いでした。

修行の日々

師匠と出会い、修行の日々が始まりました。
ここで見た先生の実態は、思っていたものとはかけ離れたものでした。
先生は計算高く、裏表の激しい人でした。夢見がちで言葉を変えれば約束を守らぬ人でした。そして無邪気で一生懸命な人でした。

修行時代の私は地元でサラリーマンをする傍ら東京にレッスンに通いました。レッスンは朝の10時にスタートし、A先生のファンである有閑マダムたちがやってきます。にぎやかに談笑しながらマダムを褒めレッスンは進みます。
私はその横で先生のお茶を入れたり、昼食の準備をしたり、時にマダムたちのお使いにもでかけました。
マダムたちのレッスンが終わる19時ころ、
「歌ってごらん。」
師匠に言われ渾身の一曲を歌うのですが先生は先ほどとはちがいにこりともしません。
「ちがうよ。」
何がちがうのか、どうすればよいのか、何一つ教えてはくれませんでした。先ほどのマダムたちに言うような褒め言葉は何一つ与えられぬまま、すごすごと最終の新幹線で帰るという繰り返しでした。
しばらくして私はA先生の経営する新宿のナイトクラブでデビューしました。名のある先輩歌手の前座で1~2曲を歌うのですが、スポットライトを浴びている数分間は生きていることが実感できました。
シニカルな先輩の言葉や、心無い酔客の言葉もすべて気にならぬほど幸せでした。こうして歌うことができるなら、ほかのことなどどうでも良かったのです。
スポットライトの魔力と引き換えにできるなら私は悪魔に魂を売ることさえできると思っていました。

さよなら

先生のクラブで歌いながら、修行の日々は続いていました。全国で開催される先生のコンサートの準備を任され私の有給休暇はほぼすべて先生のために費やしました。
そんなとき、先生が体の不調を訴えたのです。最初はただの疲れと高をくくっていましたが、あるコンサートで記憶を失い倒れ、それからのことはあっという間でした。
先生が重病と知れると、周りに集っていたマダムたちは潮が引くように去っていきました。病気の進行と同時に先生のわがままも進行し、我々弟子は振り回される日々が続きました。
そしてそれも長くは続かず、救急搬送されてからわずか数か月で先生は亡くなりました。

亡くなる数日前、いつも強気で夢想家の先生が弱音を吐きました。
「先生がいなくなると歌う場所がなくなります。がんばってください。」
おどけて言うと、
「あなたは、大丈夫だよ。最初にもらった手紙、あれには心を動かされる言葉が書いてあった。この子はいけると思った。あなたは人の心をつかめるものを持ってる。大丈夫。」
気の利いたことを言わなければと思っても言葉が出て来ぬままでした。

先生のお別れ会の日は晴天で、新宿の厚生年金会館までの道すがらのまぶしかったことしか覚えていません。同じくお別れ会に向かう男性のサングラスにも強い光が反射していました。悲しいほどの晴天は先生の生き様そのものでした。

そして始まる

先生が亡くなり、実質私は歌手としての行く先を見失いました。このまま諦めてサラリーマン一本で生きるのか、宙ぶらりんの日々を過ごしていました。
そんなある日、先生と私を引き合わせてくれたナイトクラブのオーナーから連絡がありました。
「手紙をもらってね。」
オーナーの元に先生から手紙が届いていたそうです。
『私が育てました。使えるように仕込みました。使ってやってください。』とそういって私の名前が書かれていたそうです。
「本当はね、うちはオーディションをするんだけど、Aさんのお墨付きなら必要ないよ。来週から来るかい。」
生きているうちに一度だって褒めてはくれなかった先生を私はどれほど恨めしく思ってきたでしょう。
過ぎて初めて気づくもの、そんな先生の歌の歌詞が何度も何度も頭をまわるのでした。

それから

ナイトクラブの看板娘として2年半は、修行時代同様に多難ではありましたがすべては毎夜繰り返されるスポットライトの光がつらさを洗い流してくれました。
1枚目、2枚目とアルバムを上梓し、やがてナイトクラブを卒業し独立しました。
サラリーマンか歌うことかどちらかの選択を迫られたとき、私は何の迷いもなく歌うことを選びました。
そして、教室を主宰するようになり、年に10回程度のワンマンリサイタルの席が埋められるようになったころ、ナイトクラブのオーナーが世を去りました。
アーティストの世界は入れ替わりが激しく、ときに自分の中の嫉妬心に焼き尽くされそうになります。
また、誰もいない会場で歌うことや、口さがない人たちの好奇の目にさらされることも日常です。
それでも私が胸を張って歌い続けるのは、師匠と過ごしたあの修行の日々があるからです。
私と同じく「歌う」という魔物に魅入られたもの同士の断ち切れぬ絆が私の支えです。
オーナーも師匠も私の中に自分たちと同じ「におい」を感じ取り、哀れみながら大切にしてくれたのだと思います。
自分の生き方や性は定められた運命なのだと教えてくれたA先生は私の唯一の師匠です。
今日もまた全身にスポットライトを浴びながら、しがない歌手として生きる私をきっと師匠とオーナーは空の上から見ていてくれるのでしょう。
先生、私は元気に歌ってますよ!

 

音楽好きが集まる婚活イベントはこちら!