ロマンスグレーに眼鏡をかけた優しい眼差し、そして、現役時代と変わらぬスラリとした体形そのままに穏やかな微笑みを浮かべる紳士。
それが、南海ホークス最後の監督、杉浦忠の印象である。
その佇まいからは、かつてパリーグの強打者をキリキリ舞いさせた雄姿を想像することはできない。
“史上最強のアンダースロー”と謳われた杉浦忠とは、如何なるピッチャーだったのであろうか。

ピッチングスタイル

杉浦忠は、1935年9月17日に生まれた愛知県出身の元南海ホークスのピッチャーである。
拳母(ころも)高校時代は無名の投手であり、当時はオーバースローだった。
そんな杉浦は、立教大学時代にアンダースローへとモデルチェンジする。
肘を怪我したことがきっかけとなったが、もう一つ大きな理由として投球動作のとき、かけていた眼鏡がずれてしまいコントロールが安定しなかったからである。
これが、ズバリ当たる。
元々、オーバースローでもスピードに乗った速球を投げていた杉浦だが、アンダースローにフォームを変えても自慢の快速球は唸りをあげた。
いや、むしろ、下手から地を這うように繰り出される速球は浮き上がるように伸びてきたので、伝家の宝刀の如き切れ味に達していた。
そのダイナミックで美しいフォームは、上体が流れるように沈み込むと氷上を滑るかのように水平に移動し、右腕が鞭のようにしなりながら鋭く振られる。
アンダースローは下半身への負担が非常に大きいのだが、体全体の筋肉が非常に柔らかいことに加え、強靭な下半身を誇った杉浦だからこそ、“魅惑のサブマリン”へと変貌を遂げることができたのである。
また、杉浦は速球だけではなく、カーブも一級品であった。
その大きく横に曲がるカーブに、パリーグの強打者のバットが空を切る。
あるときなど、打撃の神髄を極め神の領域にまで到達したといわれる榎本喜八が外角から曲がってきたカーブに空振りすると、お腹にボールが当たったという逸話も残されている。

入団のエピソード

当時のプロ野球は、現在と違ってドラフト制度がなかった。そのため、球団と選手の意向が合えば入団できたのである。
南海ホークスの主力選手で、テレビ出演時の「喝!」でお馴染みだった大沢昌芳(後年、啓二に改名)は、立教大学出身であり杉浦の先輩であった。
そうした縁もあり、その年は、立教大学の後輩である杉浦忠と長嶋茂雄の両名が南海ホークスに入団する予定となっていた。
ところが、突然、長嶋は翻意し巨人に入団する意向を示したのだ。
それに慌てたのが、南海の鶴岡一人監督だ。「杉浦は、大丈夫なのか。」と。
監督の命を受け、血相を変えながら大急ぎで杉浦の下に足を運ぶ大沢。
そんな大沢とは対照的に、笑みを浮かべながら「そんなにご心配ですか。僕が最初の約束を破る人間に見えますか。」と答える杉浦。
その男の約束を守った杉浦は、翌年、開幕戦に先発し勝利投手となる。
実は、杉浦にも巨人から入団のオファーが届いていた。
しかし、義理堅い杉浦は、球界の盟主からの誘いにも全く迷うことなく、丁重に断りを入れたのであった。

プロ入り後

杉浦は入団1年目から27勝をあげ、見事新人王に輝く。
翌年は38勝4敗、防御率1.40という驚異的な数字を残し、南海のパリーグ制覇の原動力となる。
何よりも、前年の優勝争いの最中、西鉄ライオンズのエース稲尾和久に投げ負けた悔しさを晴らせたことが嬉しかった。
この年の杉浦は、西鉄ライオンズに対し7勝1敗という圧倒的な成績を残しシーズンを終えたのである。
そして、宿敵巨人との日本シリーズを迎えた。
杉浦の恩師である“親分”鶴岡一人は、監督就任以来ここまで4度、巨人と日本一の座をかけて戦ってきたが、いずれも辛酸を舐めていた。
大エース杉浦を擁する今年こそ、なんとしても悲願達成を成就すべく、過去のどのシリーズよりも期するものがあった。
その“親分”の期待に応え、杉浦は初戦から4連投し、見事4連勝を飾る。
実は、その快投の裏で杉浦は、シリーズ開幕戦から指に血豆が出来るというアクシデントに見舞われていた。
日本シリーズ第3戦の終盤に入り、相変わらず力投を続ける杉浦忠。
すると、キャッチャーの野村が、ボールを持ったままマウンドに歩いてきた。
「ちょっと、指を見せてみろ…」と言いながら、野村は手に持ったボールを杉浦に見せる。
そこには、血に染まり、黒ずんだシミが滲んでいた。
「大丈夫か。」と心配する野村をよそに、杉浦はその後も1人で投げ抜き接戦をものにしたのだが、この第3戦は日本シリーズの流れを大きく左右する試合だった。
2対1で南海が1点リードし、9回裏の1イニングを杉浦が抑えれば南海の3連勝が決まる。
ところが、同点ホームランを打たれ、なおも1死2・3塁と絶体絶命のピンチに陥ってしまう。
このとき、杉浦の右手中指は血豆が完全に破れ、皮が捲りあがり、とても投げられる状態ではなかった。
さすがの杉浦も交代させて欲しいと弱気になったが、マウンドに伝令が来て杉浦に何やら渡す。
それは、鶴岡監督が大事にしていた厳島神社のお守りであった。
鶴岡監督の「スギ、この試合、お前に託したぞ!」という気持ちが、痛いほど伝わってくる。
そのことに奮い立った杉浦がこのピンチを何とか凌ぐと、南海が延長10回に決勝点をあげ貴重な1勝をもぎ取る。
第4戦も杉浦が先発し完封勝利を収め、悲願の日本一を達成した。
このシリーズ4試合で、南海投手陣が投げた37イニングのうち32イニングを杉浦ひとりで投げ抜き、その球数は実に436球にも上った。

杉浦忠という男

杉浦は入団3年目の翌年も31勝をあげ、4年目のシーズン早々に通算100勝を達成する。
この3年1か月での100勝到達という記録は史上最速であり、おそらく今後も破られることはないだろう。
これほど活躍した杉浦であったが、1度も彼の年俸は1,000万円に達していない。
いくら昭和30年代とはいえ、杉浦自身の契約金が1,200万円だったことを考えれば安すぎる。
これは、杉浦が球団の提示額に対して、一切、異議を唱えなかったからである。
あるとき、妻が「これだけ投げているのだから、もう少し上げてもらっても…」と進言すると、「親企業の南海電車が、いくらの運賃をお客様から頂いていると思っているんだ!」と取り付く島もなかったという。
「とにかく、投げることが出来れば満足だった。マウンドへ向かうことが楽しかった。」と述懐する杉浦。なんと欲のない男であろうか。
そんな快刀乱麻の投球を繰り広げてきた杉浦は、4年目のシーズン後半に動脈閉塞による血行障害のため、右腕に血が通わなくなってしまう。
それは、右腕切断の危機に瀕するほどの重症であった。
杉浦忠が、そこまで悪化するほど投げ続けたのはチームのためであり、そして、恩師と慕う鶴岡一人のためだった。
当時の杉浦と鶴岡の関係は、決してベタベタしたものではなかった。
しかし、目には見えない強い絆が二人の間には確実に存在していたと、当時の南海の選手たちは声を揃える。
杉浦が現役引退をした年の瀬、自宅に突然現れた鶴岡。
「どや…辛いか…辛いやろ。」と杉浦に語りかける鶴岡は、明らかに酔っていた。
その顔は涙に暮れていたという。
きっと、“親分”鶴岡にとって杉浦は、宿敵巨人を倒し日本一のチームの監督という栄光を味わわせてくれた孝行息子のような存在であったのだろう。
あるいは、チームの勝利のために杉浦を酷使し投手生命を縮めさせたことが、鶴岡一人の胸に言葉では語り尽くせぬ思いを去来させたのかもしれない。

まとめ

昭和最後の年となる1988年、かつて黄金時代を築いた南海ホークスが、ダイエーに身売りされると発表される。
その南海で最後の監督を務めていた杉浦忠は、翌年から九州福岡に本拠地を構えるダイエーホークスの初代監督に決まっていた。
南海の本拠地での最終戦。その試合後に開催されたセレモニーで、杉浦は「行って参ります。」と大阪のファンの前で挨拶を結ぶ。
「行って参る」とは、文字通り「行って来る」という意味であり、いつの日か福岡から大阪に戻ってくるということを言っているのである。
これから、福岡で新たな船出をしようというチーム。そして、何よりもダイエーホークスを迎える九州のファンは、複雑な思いを抱いたに違いない。
杉浦が南海の監督に就任したとき、杉浦とバッテリーを組んでいた野村克也は、「あいつの人の良さが、先々、徒になるだろう。」と漏らしていた。
セレモニーでの発言を杉浦は、「大阪へいつの日か呼び戻してほしい…そんな本音がポロっと出てしまった。」
杉浦の実直な人柄を偲ばせるエピソードである。
「南海は、選手のまとまりにおいて史上最高のチームだった。鶴岡一人監督という素晴らしい師にも巡り会うことができ、僕の全てであった。」
この言葉を聞いたとき、杉浦が酷使されても愚痴一つ言わずに、投手生命と引きかえに滅私の精神で投げ続けた理由が理解できたような気がした。
そんな杉浦は、2001年からプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズのコーチに就任するも、遠征先で心筋梗塞により帰らぬ人となる。まだ66歳という、若すぎる死であった。
南海ホークス悲願の日本一を自らの右腕で勝ち取り、球団の最期も看取った杉浦忠。
その生涯は、名前の“忠”という字が表すように、終生変わらぬ忠義を南海ホークスに捧げたものだった。

 

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