年に何度か旅行します。出かける先は「九星気学」の「九星盤」で視る、その年々の吉方位ですが、今回は方位に拘らず「土地相」の良い場所を選んでみました。
山口県長門市油谷町という日本海に面した本州最西北端の港町です。
世界三大美女・楊貴妃
クレオパトラ、小野小町と並んで世界三大美女と称され、映画やドラマの主人公として度々取り上げられる「楊貴妃」は、中国人女性の中でも、特に物語性のある存在ではないでしょうか。
その生涯がミステリアスで悲劇的な最期を遂げたとの史実から「悲劇の王妃」と同情的な見方もある反面、安史の変を引き起こした元凶として「傾国の美女」と非難される事もあります。しかし楊貴妃が絶世の美女で、時の皇帝・玄宗帝から限りない寵愛を受けた事は事実であり、頭脳明晰の上、人並外れた音楽の才能を持っていた事も文献に記載されています。
「楊貴妃」というのは名前ではありません。「貴妃」は身分で、当時宮廷内には他にも「貴妃」が大勢いました。つまり「楊貴妃」も大勢の中の一人に過ぎなかった訳です。それでも時の権力者に多大な影響を与え続けたのですから、ただ単に顔が美しいだけでなく、その内面に言いつくせぬ魅力があった事が想像できます。
安史の変が起きたのは755年から763年。楊貴妃の没年は756年7月15日とされています。享年38歳でした。
動乱の最中、玄宗帝は、その深い愛情ゆえに楊貴妃に自害を命じます。皇帝から渡された白絹を梨の木に結んで細い首をかけた楊貴妃の最後の言葉は「死んでも恨む事はございません」でした。唐国の混乱を招いた全ての罪を一身に背負って楊貴妃は世を去ったと中国史は伝えています。
他にも楊貴妃の最期については諸説あり、それが伝説化される要因だと思いますが、一点確かな事は、終ぞ亡骸が発見されなかった事です。内密の使者がお墓を掘り起こしましたが棺の中には「香袋」しか入っていなかったと言われています。
楊貴妃は本当に自害したのか?所謂「替え玉」だったのでは?
だとすると、彼女は一体どこに行ったのでしょうか?
楊貴妃が眠るニ尊院
数人を乗せた空艫舟(うつろぶね)が山口県向津具九津の港に漂着したのは756年7月の事。その中に長い船旅で衰弱し、侍女に支えられながら息も絶え絶えに下船した一人の気品ある女性がいました。里人も心を尽くし看病しましたが、その甲斐なく到着直後に息を引き取ります。里人達は九津の丘の海の見える場所に、この女性の亡骸を葬りました。その時、お供の侍女は「このお方は唐の皇帝の寵妃楊貴妃と申される」と話しながら、いつまでも涙にくれたとニ尊院に伝わる古文書「ニ尊院由来記」に記されています。
山口県長門市油谷町の向津具半島。
向津具は「むかつく」と読みますが、その名称とは対照的に穏やかで静謐な日本海を望む港町です。この半島突端の「ニ尊院」という寺院の境内に見事な石積みの五輪塔があり、これこそが日本に逃れ失意の中で世を去った楊貴妃のお墓であると言われています。
里人達は清掃を兼ね、寂しい異国の地で亡くなった楊貴妃のお墓参りを欠かさなかったようですが、いつの頃からか、近隣住民の間で「楊貴妃のお墓にお参りすると願いが叶う」と噂されるようになり、やがて至るところから参拝者が訪れるようになりました。
今も楊貴妃のお墓にはお花が絶えませんが、全国から訪れる参拝者からのお供え物です。
女性の味方・楊貴妃の御利益
楊貴妃が絶世の美女であった事にちなんで、生まれて来る子が男の子であれば美男子に、女の子であれば美人になりますようにと妊婦さんがお参りし、美男美女であったかは不明ですが、大変安産であったと聞いた妊婦さん達が、こぞって安産祈願に訪れるように。
また、楊貴妃の生涯を語る上で忘れてならないのが玄宗帝から受けた限りない寵愛です。哀しい最期だったとはいえ、唐宮廷での毎日は女性冥利に尽きる日々だったのではないでしょうか。そんな楊貴妃の魅力や女性力にあやかろうと「良縁」を願う女性の参拝が絶えません。恋愛祈願でお墓参りというのは全国的にも珍しいですが、亡くなって1200年経っても楊貴妃は女性の味方のようで「参拝した直後、片思いしていた彼の方から食事にさそってきてくれた」「一度破局した彼と復縁した」「人生で初めての恋人が現れた」等々、恋愛成就の嬉しい報告が寄せられています。
「美肌」「アンチエイジング効果」を願っての参拝があるのも楊貴妃のお墓ならではかもしれません。美肌に効果のあるパワーストーン「ローズクウォーツ」や「インカローズ」を持参して墓前で祈願する女性もおられるそうです。
楊貴妃の里
楊貴妃のお墓一帯は1993年「楊貴妃の里」という中国風の公園として整備されました。
園内に入ると、まず目に留まるのは白亜の大理石でできた楊貴妃像です。高さ3.8メートルで楊貴妃の享年38歳にちなんだ高さです。
唐国の都だった長安(現在の西安)近郊「ばかいは」という町が楊貴妃最期の地と言われているのですが、ここにも全く同じ像があり、楊貴妃の里の像は現在の中国西安の方角を向いて建っています。石像とはいえ気品と知性があって今にも動き出しそうなリアルな表情です。
隣には中国風の東屋、華精池など、小さいながらも楊貴妃の故郷中国が再現されて異国情緒が漂っています。
楊貴妃の「美肌守」
ニ尊院には小さなお土産処がありますが、ここでしか買えないオリジナル商品が色々販売されていて、持っていると女子力を上げてくれそうな縁起物が沢山ありました。
中でも「美肌守」というパワーストーンブレスレットは強い紫外線にあたると色が変化する「ハックマナイト」という天然石を使用していて、その名の通り日差しから肌を守ってくれる女性には嬉しい実用的な一品です。抜ける程肌が白かったとう楊貴妃。強い日差しにも気を付けていたのかもしれません。その他「楊貴妃ストラップ」「楊貴妃せんべい」など楊貴妃にちなんだグッズが販売されていました。
楊貴妃の湯
海と山の景色が交互に車窓を彩る国道191号線を東へ向かう事、約1時間。
山口県長門市湯本温泉に到着です。山口県3大温泉の一つで皇室御用達のお宿もある名湯です。約20軒の旅館がありますが、せっかく楊貴妃の御利益を頂きに来たのですから宿泊も楊貴妃にちなんだお宿をと、楊貴妃が入浴していた浴室を忠実に再現した大浴場がある「玉仙閣」へ。
「楊貴妃のお風呂が発見された」と発表されたのは1988年。横幅は最大で3.9メートル、深さは1.2メートルもあり、底に噴水口があって、ここから湯が沸き出す仕組みとなっていたようです。浴槽の左右2か所に階段があり、ここから出入りしていたと思われます。
「玉仙閣」に再現された大浴場は、その名も「楊貴妃の湯」。弱アルカリ単純泉で、特に女性の大敵「冷え性」改善の効能があります。
周囲は山に囲まれた「山里の出湯」といった風情ですが、車で10分も走れば日本海で、その為、海山の幸いずれも豊富なのですが一番の特徴は夕食のデザートです。楊貴妃が美容の為、1日1個は必ず食べていたという「ライチ」が付いています。何から何まで「楊貴妃」一色で、余る程の女子力アップパワーを頂きました。
山口県長門市湯本温泉という湯名に聞き覚えがあるという方も多いと思います。
2016年12月15日。安倍晋三総理大臣とロシアのプーチン大統領が会談を行ったのが、ここ湯本温泉の「大谷山荘」というお宿です。
その安倍総理は、まもなく就任期間歴代トップを記録しますが、安倍総理の地元で御先祖が眠るのも山口県長門市です。
また、アメリカCNNテレビが「日本で最も美しい場所31選」に選出した事で日本国内にも広まり、海へと向かう123本の朱塗りの鳥居で一躍観光名所となった「元乃隅稲成神社」が創建されているのも山口県長門市です。
人の顔には「顔相」があり、手には「手相」があります。これは生涯不変ではありません。環境や思考、人生観によって変化します。「家」であれば「家相」で、これも、どこに何を置き、どう住むかで悪かった相を改善する事が可能です。
同じように「土地」にも「土地相」があり、その時代、その時々で運気の良い土地は至る所に移り変わります。訪れた人の運気を上げてくれる、「土地」には、そんなパワーがあります。
旅行先は「グルメ」「観光名所」「宿泊施設」など色々な決め手があると思いますが、日々のニュースや出来事で話題になっている「土地相」の良い場所も選択肢の一つに加えてみてはいかがでしょうか?