祖父について
祖父は第二次世界大戦下で兵隊に出た経験を持っていました。映画の助監督をしていた若かりし日に兵隊にとられ、無事帰還した後は警察官になり家庭を持ち、定年まで勤務。こうして考えると、戦争前と戦争後では祖父の生き方は全く方向が変わっており、兵士としての経験が人生観を変える程のものであったとしみじみ推測します。
私が中学生のときに亡くなったため大人同士の話をしたことがなく、詳細は曖昧ですが時々、戦時の一部分の記憶を話していたと記憶します。
中国の話をよくしていて、今では入ることのできない歴史的建造物の中にいた話や、凍てつくような寒さで震えていたこと。そして祖父はアイススケートが上手だったのですが、それも天然の氷の上を移動するときに身に着けた技であると聞きました。
「戦友」については、同じ部隊で共に過ごし闘った仲間の殆どが何かしらの闘いの際に亡くなったそうです。子どもの頃、プールに行くと祖父の背中には大きな傷跡があり、鉄砲の弾に当たった跡だという話はとても怖いものでした。また、就寝時には仰向けで体を真っ直ぐに伸ばし朝までその状態を保っていたのが不思議でした。
「兵隊の寝方だよ。」
私はその言葉を遠い物語のように聞いていました。
生と死の境目を体験した祖父は、他の大人とは違い不思議な人でした。コインを移動させるマジックは大人になった今考えてもそのタネが解明できません。祖父の家でたくさん飼っていた犬や猫、鳥、ときにまりもを相手にまるで人間と接するように話をしていたのも不思議。何を考えているのかわからない人というのには今でも時々出くわしますが、祖父の場合は何を考えているのかはテレパシーのようにわかるのですが、次元の違う人、という感じでした。
不思議な話
祖父が亡くなる1年ほど前に聞かされた不思議な話をしましょう。
そのころ、祖父の戦友が病に倒れ長い入院生活を送っていたそうです。お見舞いにいったときに戦友の奥さんと祖父が経験したという話です。
祖父の戦友は意識がまだらで、ときどきはしっかりしたり、時間によっては曖昧と夢うつつを行き来しているような状態でした。
「白い陶器のロケットに乗ってたよなあ。」
意味が分からず祖父の戦友の奥さんは聞き返しました。
「白い陶器のロケットってなんですか?」
祖父の戦友は何か言葉を吐き、怒ったように顔を背けました。
祖父が病室を見舞った際に戦友はまた同じことを今度は祖父に言いました。
「白い陶器のロケットに乗ってたよな。」
祖父は静かに
「俺たちが乗ったのはロケットじゃなくて戦闘機だ。白いのもあったかしれんが陶器ではないよ。」
戦友は、言い返します。
「ロケットだよ。戦闘機じゃない。」
祖父と戦友の妻は顔を見合わせ、たぶん夢の話であろうとつぶやきました。
「白い陶器のロケットに、お前たち二人とも乗ってたじゃないか。忘れたのか。」
戦友は疲れたのかゆっくりと目を閉じ、
「ああ、早く17日にならないかなあ。」
とつぶやくように言います。
「給料日のことですか?」
17日は戦友が帰還後に勤務していた会社の給料日でした。妻の言葉にあきれたように首を振り
「俺はもう定年したよ。給料日なんかじゃない。」
しっかりと現状は把握できているらしい言葉に、戦友の妻も祖父も戸惑い、話は終了しました。
そして、翌月の17日、祖父の戦友は静かに息を引き取りました。
葬儀が済み、納骨を前に祖父は戦友の自宅をお参りに訪れました。主を失った自宅はひっそりとしていて、家全体に寂しさが漂うようです。
「あの人が待っていた17日は、病気から解放される日のことだったんでしょうね。」
戦友の妻はぽつりと言います。
「戦争を経験したせいか、あの人はときどき不思議なことを言いました。なんて言いますか第六感のようなものとかそういうのがあったのかなと思っています。」
祖父は出されたお茶を飲みながら聞いていました。
「特に人の生き死に関してあの人は勘が働くようでした。戦争でご一緒した誰それはもう死んだな、なんて何の連絡もないのにそんなことをふと言うんですよ。」
「わかるんですよ。戦友が死んだら、なんとなく。」
祖父は当然のように言いました。戦友の妻は、立ち上がり祭壇に近づきます。
「これ、ご覧になってください。」
覆いのかかった骨壺を指した。
「これね、火葬場で娘がロケットみたいだね、って。」
戦友から陶器で出来たロケットの話を一緒に聞いていた祖父は頷きました。
「これのことだったんですね。私たちも一緒に乗っていたロケットは。」
この一連の話を、何でもないよもやま話をきかせるように祖父は私と祖母に語り聞かせたのです。
ほどなくして祖父に病が見つかり、それはあっという間に進行しました。他人の死に敏感であった祖父は自分の死期についても同様であったよう。淡々と日々を過ごし、入院中も医師の指導に従うことなく当時はまだ病院の近くに設けられていた喫煙室に通いつめていました。好きなものを食べ、養生からは程遠い生活を経てその生涯を閉じました。
葬儀の後、中学生だった私は火葬場に行くことなく祖父の家で帰りを待っていました。
「Mちゃん。」
火葬場から帰った祖母に呼ばれ部屋へ。
「おじいちゃん、陶器のロケットに乗ったよ。」
祖父の入った白い陶器のロケットを見ながら、私たちはあのときの祖父の話を思い出していました。戦友と一緒に祖父もロケットに乗っていたと。戦友と祖父はこのことを言っていたのだと直感しながら、怖いとは思わないことが自分でも驚きでした。
人間が生きる世界
私たちは生きている間と死んでからとの間には大きな隔たりがあり、こちらの世界とあちらの世界は遮断されているように感じています。そして、私たちがいる世界に対し、死後の世界は「怖い」世界であると潜在的に感じている部分があるでしょう。
子どものころ、夏休みによく見ていた「怖い話し」のテレビ番組は、死後の世界からやってきた魂や、あちらの世界に行くことができない魂を描いていたようです。故に、生を失うということは怖い世界、未知の世界に出向くことであり、こちらとあちらには大きな壁があると思っているようなところがあります。
戦争で、極限の世界を体験し、生きることと死ぬことが交差した場所にいた祖父やその戦友たち。
彼らは、生と死の境目をたくさん見ました。そして、それは自分自身が今いる場所が「生」の方なのかそれとも「死」のサイドなのか、それすらもわからなくなるような体験だったのでしょう。
戦争を乗り越えた祖父や戦友たちにとって「死後の世界」は今と全く違う場所に行くというよりも、「生」の延長にあると感じていたのではないでしょうか。
それ故に、「生」の次に続く世界を自然な未来と捉え、感じることができた。そこへ向かうことは怖いことではなく、先に進むだけ。
第六感のようなものを持っていたり、動物と自然に話をしていた祖父は、こちらの世界、あちらの世界と限定しない自由な魂を持っていたように思います。
幼児期の子どもが、大人には不思議と感じられる言動をとることがありますが、祖父の魂はそれによく似ていました。人間は、生まれたときには、あちらもこちらもない自由な魂を持ちながら、しつけや教育によっていつの間にか不自由な魂に育っていくのでしょう。社会に生きるということは、不自由さを身にまとうことで、動物本来の魂の自由さを失うことでもあるのかもしれません。
祖父が自由な魂を手に入れたきっかけが図らずも戦争体験であることは、悲しいことですが、「死」を知って「生」の意味を教えられた、夏になると思い出す、そんな不思議なお話です。